国際日本文化研究センター 名誉教授 山折 哲雄
1. ブッシュ大統領の2001年9月11日の演説
二年前の9月11日に、アメリカの政治経済の中枢部を同時多発テロが襲いました。その日の夜、ブッシュ大統領は、アメリカ国民そして全世界に向かってテレビを通して演説をしました。 その演説を聴きながら、最後に例の話が出てくるのではないかと、私にはある予感がございました。そして、その予感は的中いたしました。お聴きになった方はご記憶かと存じますが、その演説を締めくくるにあたって、ブッシュ大統領は、旧約聖書の『詩篇』に出てまいりますダビデの言葉を引用しました。ダビデは、今から3000年前イスラエルの王国を造った王であります。「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れません。神が私と共にいてくださるのですから。」 マスコミではしばしば、あの演説の中でブッシュ大統領は十字軍という言葉を口走ったと、批判の声が囁かれ議論されています。しかし、私はむしろ、そのことよりも、演説最後におかれた旧約聖書の言葉に重大な関心を持ちました。
さて、そういう旧約の言葉を引用するであろうという予感を私が持ちましたのは、今から12年前の湾岸戦争の時にも同じようなことが起こっていたからであります。 イラクのクウェート侵攻に対して、アメリカを中心とする多国籍軍が派遣されてイラク軍を撃破しました。そのアメリカの戦車隊員たちの胸の内のポケットには、ある印刷された紙片がしのばされておりました。そこにあったのは、旧約聖書のなかの預言者モーゼの言葉であります。『神のもと、獅子と毒蛇を踏みにじって前に進もう。』3000年前のモーゼにとって、獅子と毒蛇の意味するところは、まさに神ヤハウェに従わない異教徒でありました。それが、12年前の湾岸戦争の時には、明らかにイスラム教徒を指す言葉として転用されています。 実は、これにはもう一つ話がついております。第2次世界大戦の末期。北アフリカで、イギリスの戦車隊とナチスドイツの戦車隊が決戦を演じ、イギリスが大勝利を収めたことがありました。そのときイギリス戦車隊員たちが懐にしのばせていた言葉が、先ほどのモーゼの言葉でありました。根は深いのです。 私は、湾岸戦争にしましても、今度の同時多発テロ、それに続くアフガン戦争・イラク戦争すべてを、宗教戦争とか、文明の対立という形で短絡させようとは、毛頭思っていません。そこには、政治・経済的な背景があります。とくに石油の利権をめぐる問題が大きく存在していることも十分承知しています。
にもかかわらず、あるいはそうである故にいっそう、八千年の歴史を貫いて、この地球上に地下水の如く底流れしてきた、宗教的な諸問題を否定することはできないだろうと思います。政治・・経済的な問題と宗教的な問題をどう関連させて捉えていくかが、現代社会における戦争と宗教の問題を考えていく上で非常に重要なのではないかと、思っています。
ここ3〜400年、勝ち続けている、負け知らずのアングロサクソン民族が戦争においてまた平和において、どういう主張をしてきたかを考えますときに、聖書を巧妙にまた見事に使い分けていることに気がつきます。国家の危機に際しましては、旧約の恐れる神を前面に持ち出してきます。しかし、平時や、秩序を回復するべきときには、新約の愛の神を前面に持ち出します。「ちょっとやそっとで、こういう民族の戦略には対抗はできない」と私は思っております。
京都で小さな私的な会合があり、たまたま小泉首相がお出でになりました。食事が終わって雑談をしているときに、私は小泉さんに次のような質問をぶつけてみました。「もし首相官邸にあの同時多発テロが襲ったとしたら、あなたは日本の国民に対してまた世界に向けてどういうメッセージを発しようとお考えですか。あの旧約聖書のモーゼやダビデの強い言葉に匹敵するような言葉をお持ちでしょうか。実は、これは一総理大臣だけの問題ではなく、われわれ自身の問題でもあります。自分自身も考えているのですが、どうも見つからない、あなたの場合、いかがでしょうか。」小泉さん、しばらく考えて、やがて天を仰いで「無いなぁ・・・・」 皆さんはいかがでしょうか。 たしかに旧約聖書に対抗できるような強い言葉はわれわれの文化の中には無いのです。そのような言葉を持つことがプラスで、持たないことがマイナスであるという単純なことを言っているつもりはありません。そういうことではなくて、そのような言葉を持つアングロサクソンに対して、われわれは一体何を主張し得るのかという問題を、もう少し別のレベルで考えなければいけないと思うのです。
2. 1995年イスラエルの旅
学生の時以来、宗教の研究をするのならば、仏教についてはまずインドに行く、キリスト教についてはまずイスラエルに行く、これが先決だろうと思い込んでおりました。行って、釈迦の足跡を歩いてみる、イエスの伝道活動した足跡を実際に自分の体で辿ってみる。そういうことをしなければ、仏教やキリスト教の究極は分からないだろうと。
私はインド哲学を大学で専攻しました関係上、卒業後、インドへは10回くらいは行っています。釈迦の歩いた足跡も辿ってみたことがあります。ほとんどバスに乗ったり、汽車に乗ったりして辿りました。「インドで釈迦の歩いた足跡にわが身を浸そうとするのならば、実際に自分の足で歩いたらどうですか、先生!」。学生たちにこう言われて、「よし歩いてみよう」と答えたのが、今から30年前でありますが、未だに果たせておりません。
同じようにイエスの活動した地域を実際に自分の身体をさらして歩いてみることが必要だろうと思っていましたところ。1995年、それが実現することになりました。残念ながら、バスに乗って、イエスの跡を辿っただけでありますが。
ちなみに申しますと、釈迦が歩いた距離というのは、だいたい500kmです。釈迦の誕生地は、インドとネパールの国境にあるルンビ二。そこから直線距離で500km離れたガンジス川の中流域が、釈迦の活動地帯。彼はその間を生涯で1往復半歩いていると考えられますから、1500kmを踏破していることになります。それに対して、イエスの場合には、ナザレからエルサレムまでの150kmであります。イエスの150kmと仏陀の500km。これを比較することが世界宗教としてのキリスト教と仏教を比較する根本的な原点になるのではないかと、私は思っております。
私は1995年秋、最初にイエスが幼年時代をおくったと言われていますナザレに参りました。行って驚きましたが、イスラエル北方地域の寒村で、一面の砂漠であります。砂漠の上に、石造りの家がポツン、ポツンと建っている、それだけの村であります。そして、そこからさらに東の方、イエスが伝道活動を行ったガリラヤ湖のほとりに参りました。ガリラヤというのは、物の本によれば竪琴という意味だそうでありまして、湖がたしかに竪琴の形になっています。いかにも湖底から竪琴の音が聞こえてくるような、神秘的な匂いのたちこめた湖でした。しかし、湖の周辺は、ほとんど樹木が生えていない砂漠でした。ガリラヤ湖からは、イエスがヨハネから洗礼を受けたヨルダン川が、南に流れ下っています。私たちはヨルダン川沿いに南下いたしましたが、その両岸がまたもや砂漠、砂漠、砂漠でありました。 結局、エルサレムまでの150kmをバスに揺られながら旅をしている間に、「地上に頼るべきものが何一つないとすれば、天上のはるかかなたに、唯一の絶対的な価値あるものを想定する以外になかったのだ」という実感が胸に迫ってまいりました。砂漠の民の一神教的な背景、風土的な背景が理屈を超えて、そこにあることを感得しました。 最後にエルサレムに入りました。エルサレムの都それ自体が、砂漠の中に二千年近い昔の建物があちらこちらに残っている廃墟のごとき印象でした。郊外のオリーブの丘に立って旧市街を眼下に一望してから、旧市街に下りて、実際にユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地を巡りました。
まず目に飛び込んでまいりましたのが、一枚の大きな壁、「嘆きの壁」でした。ユダヤ教の聖地であります。ダビデ王を継いだソロモン王が建てたヤハウェのための壮大な神殿があった所であります。それがローマ軍によって滅ぼされ、十字軍によって破壊されて、今日では一枚の壁しか残されていません。ユダヤ教徒は毎日のように、その一枚の壁の前に行って祈りを捧げています。かつてのユダヤ教の神殿を再建するのが、彼らの悲願なのです。ユダヤ教徒の精神的な支えになっているのはこの一枚の壁だということが、そこに行ってよくわかりました。 ところが、「嘆きの壁」の目と鼻の先にイスラム教の大きなドーム、「岩のドーム」が建っています。今はドームの中にある大きな岩から、預言者ムハンマドは天に昇りアラーと会ったと伝えられています。
歴史的事実の点から言いますと、ムハンマドはエルサレムの地へは行っていませんので、これは伝承だろうと思います。しかし、イスラム教徒はそこが重要な聖地であると信じていて、毎日のようにそこに詣でます。このイスラム教のドームがそこに建っている限り、ユダヤ教徒たちにとっての悲願は実現されることはあり得ません。絶望的な共存体制がそこにありました。 その一枚の壁と黄金に輝くドームのすぐ傍らに、イエスが十字架にかけられた「ゴルゴダの丘」があります。その丘にイエスの遺体を葬ったと伝えられる所にキリスト教の教会が建てられていて、「聖墳墓教会」と称されています。全世界のキリスト教徒は、この教会を目指して巡礼にやってきます。狭い旧エルサレム市中心部に、ユダヤ教、キリスト教そしてイスラム教、この三大一神教の聖なる場所が、肌を接するばかりの近い地域に共存しつづけてきました。 不思議というか、あるいは当然というか、キリスト教徒は「聖墳墓教会」にしか行きません。そして帰ってきます。ユダヤ教徒は「嘆きの壁」の前に行って帰ってきます。イスラム教徒は「岩のドーム」の前に行って帰ってきます。他の一神教の聖地をけっして歩こうとはしません。一神教の巡礼行動の特色は、この往復運動です。
われわれの多神教的な世界における巡礼行動は、四国八十八札所巡りのように、巡り歩く円運動です。インドでも、国内にヒンドゥー教の聖地、イスラム教の聖地、様々な神や仏を祀った聖地が各地にありまして、だいたいヒンドゥー教徒にしても、仏教徒にしても、イスラム教徒にしてもそういう聖地を巡り歩く円運動です。 もしもエルサレムの地で一神教徒たちが円運動を始めるとき、そのときにのみ彼の地で宗教的な平和共存体制は創くられるかもしれませんが、まずそのようなことは絶望的です。その当時はまだエルサレム市内ではテロは発生していませんでした。しかし、もしもしないでテロが発生するときには、これは必然的に第3次世界大戦になるのではないかという不安感に包まれて、私はエルサレムを去りました。そのような体験をして日本に帰ってきたのが10月の初旬でした。それから3日後にイスラエルのラビン首相が暗殺されたというニュースに接しました。8年前の1995年は、阪神淡路大震災やオウム真理教によるサリンテロ事件も起き、日本でも世界でも情勢が大きく変化し始めていました。
3. 日本人の自然観
さて、帰国して、日本の風土に再び接したとき、不思議に深い心の安堵を覚えました。緑なす山々、多種多様な樹木、清冽な川、山の幸、海の幸・・・。地上に豊かな自然が満ち溢れていました。このような風土の日本列島に住む人間にとって、天上の彼方に唯一の価値のあるものを求める必要は無かった、と思いました。地上の自然の中に神が在り、仏たちが密かに鎮座ましますという感覚、多神教的な感覚と言ったらよいのでしょうか、そういうものが胸に迫って参りました。
私は何もここで、一神教徒、多神教を二項対立関係に置こうと思ってはいません。西洋世界におきましても、多神教の伝統は沢山あるわけで、そういうものを再評価しようという動きが、アカデミーの分野においても一般社会においても、出始めております。また、アジア的世界におきましても、一神教的な伝統はあります。例えば、親鸞の教えに象徴されます阿弥陀如来による救済信仰は、明らかに仏教世界における一神教的な流れと言っても良いでしょう。
世界はやはり多次元的なものであることを認めなければいけませんが、その上でなおかつ風土が持っている大きな意味を考えざるをえません。風土決定論は良くありませんが、しかし風土が、芸術・文化・宗教にいかに大きな影響力を持っているかを、イスラエルの旅で私は強烈に自覚させられました。
寺田寅彦が『日本人の自然観』という素晴らしいエッセーを書いています。彼は、昭和10年にこのエッセーを書いてまもなくこの世を去ります。後世に遺す遺書のような気持ちでそれを書いたのではないかと、私は思っています。 寺田は、日本の自然をじっと観察をして、その特徴を彼なりの方法で抽出しています。彼の方法とは、ヨーロッパの自然と比較するところです。寺田はドイツとフランスとイギリスに留学したことがあります。そのときの体験に基づいて、西ヨーロッパの自然と日本の自然を比較しています。『日本人の自然観』の中で、「西ヨーロッパの自然は非常に安定しているが、それは地震が無いからだ」と、指摘しています。 もちろん南ヨーロッパや東ヨーロッパには地震国が沢山ありますが、西ヨーロッパだけは不思議に地震は発生していません。とくにフランスやイギリスは地震マップでも全く空白地帯です。「自然が安定しているから自然科学が発達したのだ。自然を客観的に観察し、定量的に分析することが可能であった。それが自然科学の発生に大きな役割を果たした」と、寺田は言います。いかにも地震学者らしい見方ですね。
例えば、イギリス人にとって、石造りの家は永遠を象徴します。3代・4代前の先祖から伝えられている石造りの家に住んでいるということが安定した社会、あるいは安定した自然の中に住んでいるというイギリス人の意識を育んできたとは、よく言われることであります。われわれのような地震国に育った人間にとっては、石造りの家は地震が来ればたちまちのうちに壊れてしまうと思うわけでありますが、イギリス人にとってはけっしてそうではありません。イギリスにおける石造建築の永遠性は、日本の法隆寺五重塔をはじめとする千年の時間の長さを耐え抜いた木造建築の永遠性と対比することができます。それに対して日本の自然はどうであったでしょうか。「非常に不安定であった」と寺田は言います。その最大の原因が地震であった。ひとたび地震が起これば、日本列島に住む人々はその自然の脅威の前に頭を垂れ、教えを乞う。自然に対して反逆することを最初から諦めていた。その自然の脅威から学んだのは、危機管理思想とでも言うべきものであった。ここに日本列島人の学問の特徴がある。」自然科学というのは人類普遍的な学問というふうにわれわれは思っていますが、民族によって風土によってそれぞれの特色をもつことに注意を促しています。 寺田によれば、日本列島の自然は、ひとたび荒れ狂うと恐るべき厳父のごとくなる面もありますが、もう一つ人々をその奥深い懐の中に抱え込んでくれる美しい穏やかな慈母のごとき面ももっています。このような両面をもつ不安定な自然と1万年近く付き合ってきた結果、日本列島人が最後につかんだ世界観は何かと言えば、「天然の無常観」であると寺田は言います。自然の摂理としての無常観と言ってよいかもしれません。
何も仏教が無常観を日本に伝えたわけではないということだと思います。縄文時代以降、はるか仏教伝来以前から日本列島にはそのような無常観が育ってきたという考えです。科学と宗教は水と油の関係ではなく、ほとんど背中合わせになっていることを、寺田は地震学者の観点から明らかにしたのだと思います。 イスラエルの砂漠の世界を体験してきた後、寺田寅彦の考えが痛切にしみるように理解することができたような気がいたします。
4. 明治維新無血革命論
近年、宗教と民族、あるいは戦争という問題を巡って世界的に大きな話題になった書物があります。ハーバード大学の政治学者ハンティントン教授が書いた『文明の衝突』という作品であります。その中で、著者は、世界に7つの文明が存在すると述べます。ユダヤ・キリスト教・イスラム教・儒教・ヒンドゥー教などの宗教的要因によって束ねられた文明圏であります。 そのなかの一つに日本文明を彼は揚げています。一国、一民族、一文化が一つの文明を形成している日本文明を、彼は高く評価しているように受け取れます。 ハンティントンは、7つの諸文明おそらく21世紀、様々な形で衝突を繰り返すようになるのではないかと考えます。とりわけそのなかの主役を演ずるであろうイスラム教文明圏に対して、アングロサクソンはどのような戦略を立てるべきかという、非常に政治的な主張を彼は展開します。しかし、そのことについては、今日は申し上げません。
私は、ハンティントンがなぜそれほど日本の文明を高く評価しているのかという問題に関心をもちました。彼は『文明の衝突』を出版してから、2度来日して講演や対談をしています。そのうち東京で開かれた講演会のなかで、ハンティントンはこういうことを言っています。「自分が、日本の近代化について一番関心をもっているのは明治維新である。明治維新がなぜ無血の革命であったのかという問題が、自分にとって大きな関心ごとである。」西郷隆盛と勝海舟の交渉によって江戸無血開城が可能になったことに象徴されている、明治維新無血革命論です。もちろん戊辰戦争から西南戦役まで、かなりの数の人が死んでいます。しかし、それにしてもその流血の度合いは、フランス革命やロシア革命のそれに比べたら、質量の面では、ほとんど無血と言ってよいに等しいのです。なぜ、日本ではそのことが可能であったのでしょうか。 ハンディントンがこの問題を持ち出したことを知ったとき、私は、今から50年ほど前、イギリスの歴史学者トインビーが日本に来て、同じような疑問をもって日本の知識人に問題提起したことを思い出しました。トインビーは戦前に1度、戦後は2,3度来日しています。戦後日本に参りましたとき、講演や知識人との対談を重ねて、京都では京都大学人文科学研究所教授でもありました貝塚茂樹さんと対談をしています。そこでやはり明治維新というのはなぜ無血革命だったのかという話になっています。
トインビーは「それは仏教の影響だろう」と言います。おそらく仏教の不殺生の考え方、慈悲の考え方を前提に、彼は明治維新が無血であった思想的な理由が仏教にあるという判断をしたのではないだろうかと思います。世界の諸文明を研究して、偉大な『歴史の研究』という書物を書き上げたトインビーであります。トインビーは、最晩年、西洋文明の可能性に半ば絶望し始めていました。そのとき、もしかすると大乗仏教に可能性があるかもしれないと考えるようになってきて、そのような観点から日本に非常に深い関心を持つようになっていました。 ところが、これに対して、貝塚さんは、中国を研究する東洋史学家として、「そうではない、自分が考えるに、むしろ儒教の影響ではないか」と、考えました。儒教にある、優れた君主は優れた臣下に王権を譲るという禅譲の精神を背景にそう言われたのかもしれません。
結局、2人の議論は対立したまま、あまりかみ合わず終わっています。世界と日本を代表する碩学が、なんと単純な議論をしているのかと、そのときは、私は思いました。儒教や仏教の影響を言うならば、神道はどうなのだろうという問題も出てきます。そのときは、そういう深い議論にまでは展開しませんでした。
しかし、この半世紀前に提起された明治維新無血革命論が、日本の学界では必ずしも正面から話題にならなかった、研究の対象にされることがなかったことの方がむしろ不思議であります。そういう研究の蓄積がないからこそ、ハンディントン教授は『文明の衝突』のなかで日本の文明を高く評価しながらも、なぜ日本では無血革命が可能であったかを明らかにできなかったのでありました。これはやはりわれわれ日本人自身がやらなければならない問題ではないかと思うように、私はなりました。 そう思ってからしばらくして、たまたま司馬遼太郎さんと対談する機会がありました。そこで、この問題を司馬さんにぶつけてみました。司馬さんの考えはまた違っていました。少し考えて、「それは水戸学の影響かもしれないよ」とおっしゃいました。王朝正統論であります。どの王朝が正統であり、異端であるかを弁別する考え方です。有名な南朝正統論がその例です。朱子学の影響を受けた水戸学は、日本の王権の正統性ということを議論して、その後の日本のイデオロギーに大きな命を吹き込みました。要するに、最後の将軍徳川慶喜は足利尊氏になりたくなかったので、大政奉還してさっさと隠居してしまったというわけであります。無血革命の根本的な原因が潜んでいるというのが、司馬さんのお考えでした。 仏教、儒教、水戸学がさまざまな形で関係しあい影響しあっていると考えなければいけないとは思いましたが、なぜ明治維新が無血に終わったのかということはよく分かりません。そこで、私はこの後、この問題を解くためには、日本の歴史全体をもう少し眺め直してみなければいけないのではないかと、次第に考えるようになりました。
5. 日本の歴史における二度の長い平和
日本の歴史を見渡しまして、誠に不思議なことに、平和が長期に渡る時期が二度ほどあります。平安時代の350年、江戸時代の250年であります。 平和の時期がこれほど長期に渡って続いた事例というのは、世界の歴史のなかにはほどんど有りません。ヨーロッパの歴史には全く有りませんし、インドや中国の歴史にもまず有りません。中国の清朝も安定していたのはほんのわずかな時期であって、ほとんどは内乱状態でありました。李氏朝鮮500年も、圧倒的に強い中国文明の傘の下における平和の状態であります。その点が、日本列島において実現された2つの長期に渡る平和の時代とは違います。 とにかく、日本の二度の長い平和は奇跡のような事態であると言って良いと思います。平安時代の350年は、平安遷都から保元・平治の乱、源平合戦の始まる時期までを指します。承平・天慶の乱もありましたが、王朝政権の基礎は安定していました。また、江戸時代の250年も完璧な平和の状態です。島原の乱も、ほんのさざなみが立つ程度の事件でありました。 これほど長期に渡る平和が続いたことの理由としてはいろいろなことが考えられます。すぐ思いつくことは、日本は周囲を海に囲まれているという地政学的な条件であります。
これについては、トインビーが次のような興味深いことを言っています。「海に周囲を取り囲まれていて近代化に成功した国は、イギリスと日本であり、その点では、イギリスと日本は非常によく似ている。にもかかわらずイギリスと日本は違う。どこが違うかというと、イギリスは絶えず外来の民族によって征服されてきた。繰り返し征服王朝により支配されてきたことによって、イギリスは国際化した。イギリスがインターナショナルな外交・軍事戦略において優位を常に保つことができたのは、侵略されてきたからこそ可能であった。ところが、日本は、第2次世界大戦まで1度も外国の軍隊に占領されたことはない。」
さて、日本の長期の平和が可能であった理由を本格的に検討する前に、もう一つ触れておかなければいけないことがあります。平安時代と江戸時代の間には戦乱の時代が挟まっています。すなわち、鎌倉幕府の成立から、南北朝、応仁の乱、戦国時代、そして織豊政権成立までの450年であります。平和、戦争、平和と言うリズムで、歴史が大きく展開してきていることが見えてきます。これをどう解釈するかと言うことであります。
従来の歴史学の常識では、平安時代は貴族社会であり、江戸時代は武士政権の下、暗い封建社会であり、鎌倉時代から戦国時代にかけては、民衆の力が歴史の表面に現れてきた社会の動乱・変革の時代であったと言われてきました。このような見方が全面的に誤っているとは言いませんが、これからの日本を占う、あるいは歴史から何を学ぶかを考えた場合、私はやはり平安時代の350年の平和、江戸時代の250年の平和が持っていた意味を、政治的文脈においても、経済的な文脈においても深く捉え直さなければいけないと思います。 不思議なことに、そのような平和の研究はほとんど皆無です。それに対して、450年の変革動乱の時代についての研究は、汗牛充棟ただならぬくらい無数にあります。明治以降の日清、日露、第2次世界大戦に至る戦争の世紀についての研究も非常にたくさんあります。この偏向はいったい何なのでしょうか。戦後歴史学の重大な問題点ではないかというのが、私の考えであります。
さて、それでは平安時代と江戸時代の平和の意味をどのように明らかにしていけば良いのでしょうか。ひとりの力ではとてもやり切れません。それこそ共同研究をしなければ明らかになるものではありません。政治・経済史的な背景、軍事史的な問題、芸術・文化の問題、宗教の問題・・・いろいろな要因が絡まりあっているに違いありません。ただ、私は、宗教を研究してきた人間として、その中で最も重要な論題の一つが、日本の場合、国家と宗教の関係が非常に相性よくバランスをとってきたことを指摘できると思います。
ヨーロッパでも、中国やインドでも、社会が混乱し戦乱に入っていくのは、だいたい国家と宗教の関係が緊張し、対立・衝突を迎えた時です。このような国家に対する激しい宗教の抵抗や反逆という事態が、日本の歴史の中に無かったと言えないまでも、非常に希薄であったという気がします。むしろ日本の場合いつもは、両者は調和の方向に向かっていきます。この調和が日本において一時的に崩れた時代が、鎌倉時代から戦国時代にかけての450年であります。戦乱の時代は、まさに国家と宗教が対立関係にあったのです。
平安時代に、外来宗教としての仏教と、土着宗教としての神道は、平和共存の体制を創り上げ完成させています。江戸時代にもこれは引き継がれています。従来の歴史教育では、これを神仏習合と呼び、宗教が国家の召使いであったというイデオロギーのもと鎮護国家という考え方で説明しました。しかし、もう少し根は深いのです。 土着の民族的な宗教としての神道が、外来の普遍的な宗教としての仏教を、柔らかく迎え入れ、包み込んで、換骨奪胎したのでした。仏教を、神道的な感覚で読み換えると言ってよいかもしれません。神仏共存の体制もしくは神仏すみ分けの体制が出来上がっていきます。 例えば、正月の宮中儀礼であります。正月の第1週目は「前7日の節会」と呼ばれ、1日から7日までは神道だけに基づく正月儀礼を行います。節会とは、神道的なお祝いの儀礼という意味です。正月第2週目は、「後七日の御修法」を行います。御修法というのは、密教僧による仏教に基づく宮廷儀礼であります。加持祈祷が主で、そのクライマックスは天皇の身体から悪霊を追い払う儀礼です。正月の儀礼のなかで神道的な「前七日の節会」と仏教的な「後七日の御修法」が共存ないししみ分けの体制をとっていることは、王朝政権全体の精神的な基軸に連なっているのです。 民間におきましても、仏教僧による加持祈祷のメカニズムと神官による御祓いのメカニズムが、両々あいまって社会の異変をコントロールし鎮圧する役割を果たしたと言ってもよいと思います。
奈良時代から平安時代にかけて、地上に、自然災害、病気の流行、政治的な動乱、個人の生命の危機や死など異常な事件が発生しますと、当時の人々は貴族・庶民問わず、特定の神の祟りであるとか、特定の人間の生霊や死霊の祟りであると考えました。祟り信仰は、奈良時代から平安時代に圧倒的な勢いをもってひろがりました。「類聚国史」には「御霊」とか「怨霊」という言葉が頻出します。それから「源氏物語」などには「物の怪」がよく出ます。この祟りを体験するために、加持祈祷や御祓いという政治・宗教的な技法が導入された分けです。 そこで、内裏には、紫辰殿のすぐ隣に真言院という密教道場が、空海によって造られました。天皇にもしもことがあれば、天皇の着ている衣服を真言院に運んで、そこで密教僧たちが加持祈祷をします。加持祈祷の終わった衣服を天皇に着せれば、天皇の身体に憑いた悪霊が取り払われるという考え方です。この祟りと祓いのメカニズムを作り出した第一人者が空海であります。紫震殿に並んで建っています。日本古来の儀礼を守る中枢センターであります神祇寮、道教的な祓いの機関であります陰腸寮、そしてこの真言院の三者があいまって祟りと鎮魂の儀礼を管掌していたのです。 三者はともに、政治や経済の安定を図り、無秩序からの回復を実現するための機関であったと考えてよいと思います。「源氏物語」や「栄華物語」を見ますと、道長のときに絶頂期を迎えました藤原一族の間でも、異常な事件が起きますと必ず必ず真言密教系の加持祈祷僧が呼び出されています。道長自身が加持祈祷を行っています。密教僧の服装をして陀羅尼を唱え、病気になった娘の悪霊払いをしています。紫式部という近代人に近い精神を持った女性も、宮廷生活の中に発生する異常事件というものを処理するときには、この加持祈祷を持ち出します。そして、非常に近代的な心理的解釈を付け加えています。
すべては、祟りと鎮魂によって、社会の安定秩序を回復しようという政治・宗教的な戦略が、宮廷から一般庶民の間にまで行き渡っていました。この戦略に沿って、外来宗教としての仏教と土着宗教としての神道がいわば手を携えて共存体制を作り上げていったのです。 もちろん、この全体を統括していたのは貴族政権であります。その上に載っていたのは象徴天皇であります。象徴天皇制は何も第2次世界大戦後にできたわけではありません。すでにその原型は平安時代の摂関体制期、藤原道長の時代に作り上げられたと、私は思います。象徴天皇制の特色は、政治的な権力と、宗教的な権威を二本立てにしていることです。二重権力権威構造と言ってよいかもしれません。天皇自体に政治的権力はほとんどありませんが、宗教的権威は誰も侵すことができません。天皇は象徴的な地位にあります。この象徴天皇制と、先の神仏共存ないし棲み分けの体制とは実にバランスが取れていて、社会秩序を安定にもっていくうえで非常に大きな役割を果たしたというのが、私の仮説です。 このような平安時代350年の秩序形成に役立ってきた諸要因が攻撃にさらされたのが、鎌倉時代ではなかったでしょうか。
鎌倉時代の法然、親鸞、道元、日蓮という宗教家たちが、神仏共存体制を否定していきます。仏教の一神教化と言っても、個性化と言っても良いでしょう。法然や親鸞にとっては念仏だけで、道元にとっては座禅だけで、日蓮にとっては題目だけで救われるという考え方は、真言や天台に象徴される多神教的な宗教観を根底から揺るがすイデオロギーとなります。非常に単純化して言えば、彼らの運動が民衆の心を捉え、貴族政権の秩序が打ち壊されていきます。阿弥陀如来による救済信仰が、やがて民衆の宗教エネルギーと結びついて一向一揆を生み出していきます。同様に、日蓮の題目信仰が、民衆のエネルギーと結びついて法華一揆を生み出していきます。これが、大体応仁の乱前後の日本社会の動乱を作り上げていく重要な政治宗教的な要因になったと、私は思います。 これらの民衆運動と結びついた仏教の一神教化の動きに、異常な危機感を抱いたのが、実は戦国時代の大名たちでした。その大名たちを束ねたリーダーが、織田信長であり、豊臣秀吉であり、徳川家康でした。彼らは、民衆の宗教エネルギーを根絶やしにすることに力を注ぎます。
信長は、一面では、比叡山を焼き討ちにしたり、高野山の坊主3000人の首を斬ったりして、旧仏教の権威を根こそぎにする仕事を始めています。しかし、それよりも信長が天下布武の第一の障害と考えていたのは、やはり一向一揆であります。そのクライマックスが石山戦争でした。けれども、信長は、鎌倉時代からの仏教の一神化の動きを完全にせき止めることはできませんでした。 信長の跡を継いだ秀吉も一向一揆を徹底的に弾圧します。当時キリスト教が日本に入ってきました。信長も秀吉も初めはキリスト教を受け入れますが、やがて秀吉は弾圧に転じていきます。キリスト教が民衆の心を捉え、時代の主流になっていくことを恐れ、一向一揆や法華一揆の弾圧と並んでキリスト教にも弾圧政策をとります。 信長や秀吉を継承して総仕上げをするのが、家康であります。家康が江戸に開幕した時点におきましては、天台・真言の権威はほとんど地に落ちていました。また、法華一揆や一向一揆に結集した民衆のエネルギーもほとんど更地状態になっていました。その上に、家康は再び、平安時代に一度は完成を見た神仏共存の体制を持ち込むわけであります。天下を秩序付けるためには神仏共存の体制は必要と考えを改めたからであります。これは従来、檀家制度に基づく宗教支配あるいは宗教利用というふうに言われてきました。しかし、もっと深い意味があり、江戸時代250年の平和を作り上げたイデオロギー的な基礎であると、私は思っております。
例えば、天皇家の菩提寺は、京都の東山にあります真言宗の寺である泉涌寺であります。中世以降の代々の天皇の位牌が祀られています。今でも位牌の一つ一つに宮内庁から供物料が支払われているはずです。孝明天皇をはじめ天皇の御陵も境内に多くございます。今上天皇も京都にお出でになるときには、お忍びでお参りなさっています。もちろん、天皇家の氏神は伊勢神宮であります。 また、徳川将軍家の菩提寺は江戸の増上寺です。代々の将軍の亡骸がそこに葬られています。それに対して、徳川将軍家の氏神は東照宮であります。家の宗教と共同体の宗教が提携し、仏教的世界と神道的世界とが見事にすみ分けられています。諸国大名も皆そうでありました。 一般庶民の間では、檀家制度の名の下に、家の宗教として仏教と、村の宗教として「鎮守の森」宗教とが支えあっていました。このような体制が、庶民から貴族・天皇に至るまで、日本国民の各階層を貫いてつくり上げられていきました。全国民に広がった神仏共存の体制は、国民宗教と言ってもよいでしょう。
尾藤正葵さんは、江戸時代の段階で、日本の神仏信仰は国民宗教のレベルに達していたと説明しています。考えてみますと、この神仏共存の体制はすでに平安時代に完成していたものです。それをもっと洗練された形で回復させたのが江戸時代であると言えそうであります。 さて、それでは、鎌倉時代から、南北朝、応仁の乱を経て、戦国時代に発生した宗教改革的なエネルギーはいったい何だったのでしょうか。鎌倉時代に発生した一種のヒューマニズム革命あるいは宗教革命のもっている意味はいったい何だったのでしょうか。日本の歴史学会では、鎌倉時代=宗教改革時代論という常識があります。明治になって京都大学の歴史学教授の原勝郎が、宗教改革のいう概念をヨーロッパの歴史から学んで、それを日本の歴史に適用しました。原勝郎以前に日本の中世を分析する尺度として宗教改革という概念はありませんでした。それ以来ずっと、怒涛のごとくこの考え方が日本の教育界を覆ってしまったのです。
ルターやカルヴァンの始めたヨーロッパの宗教改革は、カトリックの旧体制を打ち壊し、やがてルネサンス運動と両々あいまって西洋近代社会をつくり上げていきました。マックス・ウェーバーの議論を見るまでもなく、近代市民社会を形成する近代的個人は、プロテスタンティズムの精神によって養われたと言えます。 ところが日本の場合はどうでしょうか。もしも鎌倉時代の親鸞や道元や日蓮を宗教改革の担い手であるとした場合、彼らの思想やイデオロギーが、日本の近代社会を育てたエートスになっているでしょうか。否。なってはいません。私の観測によりますと、親鸞の考え方にしましても、道元の考え方にしましても。もう江戸時代には根こそぎにされています。今日の平均的な日本人の宗教観・宗教感覚というものを分析するときに、親鸞的な考え方とか、道元的な考え方は役に立たないのです。
6. 日本人の先祖崇拝
江戸時代以降、天台・真言の旧仏教はもちろん浄土真宗・日蓮宗・曹洞宗・臨済宗すべての宗派が行ってきた宗教儀礼は、先祖崇拝であります。 今日、曹洞宗でも浄土真宗でも、一門の信徒の意識調査を行っています。その檀家の意識調査の結果出てくるのは、次のことです。自分たちの檀家寺で、何が祀られ、どういう宗教的な観念に基づいて儀礼や伝道活動が行われているかについて、親鸞や道元の思想的源流に遡って答える人はほとんどいません。浄土真宗では親鸞の教えに基づいて阿弥陀如来が、曹洞宗では道元の教えに基づいて釈迦如来が祀られていますが、その菩提寺のご本尊の名前すらきちんと言える人は少ないのです。その代わりに、信徒たちが答えるのは、自分たちの一族や家の先祖への崇拝であります。では、平均的日本人の先祖信仰の中身は何なのでしょうか。それは、先祖をお墓に祀ること、先祖の骨をお墓に祀ることなのです。要するに、墓信仰と骨信仰です。
私が大学に入学したのは戦後まもなくの昭和25年でした。未だに私はその思想的な影響を大きく受けております。私は首から下は無心論者で、首から上は仏教徒というアイデンティティ・クライシスのど真中にいる世代です。私が学生時代に宗教のことを研究すると言うと、マルクスボーイの友人たちは半ば冷笑を浮かべていたものです。ところが、不思議なことに、50代、60代になって老い先短くなりますと、私の友人たちからは「親父が死んで、その墓をどうしたらいいか考えている。骨をどういうふうにしたらいいだろうか」という相談がだんだん増えてきました。「おまえは唯物論者だったのじゃないか。マルクス主義者だったのじゃないか」と私が言いますと、「それとこれとは別だ」、こう彼らは答えるのです。 自分のことも含めて、自嘲的に言いますが、日本の唯物論者はいい加減なものです。日本には、ニーチェやサルトルのような自覚的な唯物論者はほとんどいません。そのような状況のなかで、ヨーロッパと同じような市民社会を日本に創ろうなどというのは、だいたい無理なのです。私が、「日本人は宗教嫌いのお墓好き、信仰嫌いのお骨好きである」と言うと、8割くらいの人は納得してくれます。
私には、1995年オウム真理教事件の直後にカナダに言った友人がいます。彼は臨済宗の住職なのですが、そのときは檀家総代を連れて行ったそうです。入国の際、カナダの係官が、彼に「おまえの宗教は何か」と聞いてきたそうです。私の友人は当然ながら「ブッディストだ」と答えました。後ろに並んでいた檀家総代にも同じ質問をしたそうです。そうしたら、檀家寺の住職と一緒に来たにもかかわらず、「無宗教だ」と答えたということです。本気か冗談かは分かりませんが、係官は「無宗教の人間は入国させるわけにはいかない」と言ったそうです。そう言われて、私の友人は困りました。檀家総代と入国審査のときに生き別れになるようなみっともないことをするわけにはいかない、と必死になって考えました。そして、こう答えたそうです。「いま無宗教と言ったが、日本には、無の宗教という宗教があるのだ。」 これは冗談のような話ではありますが、実によくできた話なのです。われわれには無というと何となく納得するところがあるのですね。
無はたんなるニヒリズムではないと言います。ひところ前までは、どの家にも床の間があって掛け軸がかかっていましたが、そこには「無」とか「無一物無尽蔵」とか書かれていたりしました。「無、無、無・・・」と言っていると何か元気が湧いてきます。総理大臣であった大平正芳さんは、クリスチャンでありましたが、首相官邸のオフィスの壁には「無」と書いた掛け軸がかかっていたそうです。お茶でも、お華でも、家元が講習するときには、必ず無ということを口にします。西田幾太郎の「無の哲学」まで行くわけです。日本を代表するキリスト教の宗教者、思想家であった内村鑑三は、「無教会」ということを言います。「無教会」は、ヨーロッパのキリスト教では絶対に理解できない世界です。あの無は、まさに日本の「無の宗教」の無から来ています。私はそう思いますし、そう言っている人もいます。 日本人のアイデンティティの根拠は何かと言ったときに、無という問題は非常に重要だと思います。これを、今までは避けて通ってきました。
無の問題と、先ほど述べました墓それから骨の問題とは、どこかで関連していると思います。これらを束ねる信仰は何かと言いますとやはり先祖崇拝です。先祖というのは、1代前、2代前、3代前の先祖、せいぜいそこまでです。先祖崇拝の基本は、結局、人信仰なのです。神仏信仰と言っているけれども、実は人に対する信仰、人に対する畏れであります。 平安時代に祟り信仰が重要な政治宗教的なイデオロギーの役割を果たしていたことを先ほど指摘しましたが、人の霊が祟るということは、人に対する畏れをもつことです。したがって日本人は人間関係を非常に大切にします。何か超越的な者の前で身を慎むということではなく、人間関係のなかで身を慎むということが、日本社会を成り立たせています。垂直的な関係ではなく、水平的な関係と言って良いかもしれません。
人信仰は、平安時代には、祟りと鎮魂といったメカニズムを生み出し、江戸時代には、先祖崇拝という一種の集団主義を生み出しました。明治以降、ヨーロッパ文明とともに個人主義が入ってきますと、その集団主義のなかでの個人主義という受け止め方で包み込んでいきます。これは、もう親鸞の考え方や道元の考え方とは違います。ヨーロッパのルターやカルヴァンが、近代社会のエートスを創っていったということとも丸で違います。 これからは、鎌倉時代のイデオロギー、親鸞や道元たちの仏教思想を、宗教改革の文脈の中で解釈してはいけないと思います。親鸞や道元は世界水準の思想家だと私は思います。しかし、良い悪いは抜きにして、これらは流産し日本の伝統にはなりませんでした。このような日本とヨーロッパなどのちがいを前提として考えていかないと、これからの日本の近代をどう成熟させていくかというときに、思わぬ蹉跌をしてしまう危険があります。そういう点でも、私は、平安時代350年と江戸時代250年の平和の意味を正面から取り上げ、多角的に研究していくことが、今後必要ではないだろうかと、思っているところであります。 2006/11/03、目白大学 第5回市民国連基調講演 文責(小笠原・大脇)
*参考資料
1、日本文明とは何か パクス・ヤポニカの可能性
山折哲雄/著 角川書店 2004年11月
書籍紹介:人類の歴史は、常に民族と宗教による対立を孕んできた。さらに9・11以後、世界の現体制とこれに反逆するテロ国家という図式が生まれた。「文明の衝突」を回避するために、日本の果たし得る役割とは何か。その手がかりは平安時代と江戸時代にある。世界史上にもまれな長い平和期を築いたのは、国家と宗教がかみ合った固有の政治 システムや、神仏共生にもとづく多元主義、独自の貴族趣味であった。日本のあるべき姿を真摯に問い続けてきた著者が、日本で培われた平和思想の可能性に迫り、新たな地平を切り拓く刺激的論考。
目次 :「弱い歴史」と「強い歴史、文明の「断層線」「自爆テロ」と「文明の衝突」論の行方、文明の「横断線」―「捨身
飼虎」図の背景「飢餓の世紀」に向けて、究極の環境問題―「飢餓」と「肥満」飢餓を回避する第三の選択、「餓鬼」と「食鬼」の思想パクス・ヤポニカの可能性、文明対話の調停者[ほか]
2、近代日本人の美意識 山折哲雄/著 岩波書店 2001年3月 書籍紹介:近代の日本人の美意識は、どのように生まれ、育まれてきたのか。宗教研究を中心に日本人の精神史をさまざまな形で探求し続けてきた著者が、該博な知識と独自の問題意識に基づいて考察する。宗教観の問題を視野に収めながら、茶道、詩歌、性愛の問題など日本人の価値観に密接に関わるテーマを取り上げ、「美」の核心に迫る。
目次 :1 遊びと伝統(「遊び」と「遊びごころ」、茶の湯と死への誘惑 芭蕉飛びこむ水の音)
2 自然観と表現(茂吉の「自然」) 3 宗教意識(観音からマリア観音まで、日本人のキリスト教)
4 愛と性(長谷川伸の無常愛谷崎潤一郎のセクシュアリティ)
3、環境と文明 新しい世紀のための知的創造 山折哲雄/編著 NTT出版 2005年7月
書籍紹介 :国際日本文化研究センターにおいては、2001年度から四年間にわたる「文明研究」の大型プロジェクトを立ち上げ、国内外の共同研究会とシンポジウムをつみ重ねてきた。本書は、そのうち特に「環境と文明」というテーマをめぐって蓄積された研究成果の一端をまとめたものである。今にして思うのであるが、われわれもまた世界の文明的状況と環境の諸相について、そのエッセンスを凝縮して示そうと試み、論じてきたようにも思う。
目次 :第1部 環境と 文明―二十一世紀における日本の役割 (挨拶 日本文明に課せられた宿題 基調講演 エコ・エコノミー―地球のための経済を構築する パネル・ディスカッション エコ・エコノミーの問い 論文1 内なる環境、未知との共存
ほか)
第2部 新しい文明の創造のために (日本文明における「強い歴史」とは―山折哲雄氏の問題提起をめぐって 「文明の交流史観」はどこへ向かうか
4、文化力 日本の底力 川勝平太/著 ウェッジ 2006年9月 問題意識が市民国連とまったく同じです!!
5.日本の文化力が世界を幸せにする 日下公人/呉善花/著 PHP研究所 2004年12月
紹介 :日本の独自性の中にこそ、未来性、世界性がある―呉。日本文化の精神が産業になり、結果として世界に普及している―日下。「グローバル」流」より「和風」。 目次 :第1章 世界が日本の真似をする理由 (文化水準の高さ自主独立の精神) 第2章 幸せの先端を行くビジネス (成果主義よりプロセス重視顔の見えるモノづくりとサービス) 第3章 島国コミュニティの多元性 (島国文化の底力共同体生活の伝統) 第4章 豊かで平和だから和風が好まれる (自然・あるがまま・安らぎ文化の自由度・伝統と革新・自然感応力)
6、 東北アジア共同体への道 現状と課題 松野周治/徐勝/夏剛/編著 文真堂 2006年3月
書籍紹介:第1回東アジアサミットが開催され、東北アジア共同体形成の重要性がますます、現実味を持って語られてる。本書は、2ヵ年にわたる日中韓の国際共同研究により、日本、中国、韓国、朝鮮(DPRK)、ロシア極東を視野に入れ、共同体形成に不可欠な経済、安全保障、文化における協力や交流の現状を分析し、その課題を明らかにした力編である。 目次 :東北アジア共同体の歴史的意義と課題 第1部 経済協力(中国東北地域と朝鮮半島の経済関係の現状と展望―中朝経済関係の課題 中朝国境貿易の現状及び国境地域の社会・経済に対する影響積極的に入ってゆく経済協力―南北朝鮮の経済
協力を通じた北朝鮮の東北アジア経済協力への参加方案中国の「経済成長方式転換」とソフトウエア・アウトソーシング―大連の役割 ほか) 第2部 安全保障と文化交流(東北アジア地域協力と中日韓関係「東北アジア共同体」結成の求心力と遠心力 ―「文化縁・文化溝・文化力」に即した考察両岸関係に関するポスト国族主義的思考、「韓流」と東北アジアの政治 ほか)
7、 日本の進路・アジアの将来得─未来からのシナリオ─ 西原 春夫著: 講談社: 2006.10
内容説明:北朝鮮の「核」など、緊張と不安が高まるアジアの中で、歴史認識や領土問題で周辺国と対立、混迷する日本の進むべき道はどこに? 元早稲田大学総長が「平和」「アジア」をキーワードに、この国のリーダーと国民に訴える! 紹介:1928年東京生まれ。早稲田大学大学院法学研究科博士課程に学ぶ。早稲田大学総長、国士舘理事長を務めた。アジア平和貢献センター理事長、未来構想戦略フォーラム世話人。著書に「道しるべ」等。 ----------------------------------------------------------------
地球市民のソネット(地球市民憲章“Earth"より)
われら地球市民は ガイアの鼓動を聴く耳(Ear)がある。 その美質を感じとる心(Heart)がある 愛の源泉より出づる芸術( Art)がある。 われらは心ある地球市民として 人類史の魂たる技芸を活かし 万物の共感を呼ぶ 生命の紐帯を結ぶのだ! われらは熱願する 生あるものを慈しむ 新しき道を創出することを!
「衰退に至った文明の歴史の中に、必ずしも実現することに成功しなかったとし ても、事態を収拾する別の解決法が発見されたことが認められる。それが“協調の理想”である。その精神が現代に現れたのが、国際連盟と国際連合である。
国連そのものは、世界のそれぞれの国の人民とは直接つながっていない。政府を通じてつながっている。人民に直接つながる国連が必要である。」
「歴史の研究」A.トインビー
「人間心理には合理性と自己中心性がある。「しかし単数(私〉の自己中性が 唯一の悪徳なのではない。複数(我々)の自己中心性もあるのである。」なぜなら、一人の人間がただ個人のためにではなく、自分の家族、国家、教会の名において自己中心的に行動しているとき、自分は利他的に自己犠牲的に行動していると誤って想像することが』できるからである。」 『歴史の研究・再考察』 1961
「人類を滅亡させるか、それとも今後は単一の家族として暮らしていくことを学ぶか、この極端な二者択一を人類は迫られている。人類を救うためには、私たちは宗教、文明、国籍、階級、人種などの伝統的な差異をのりこえて仲良く一緒に暮らしてゆく方法を考えねばならない。仲良く一緒に暮らすことに成功するためには、わたしたちはお互いを知らなければならない。」 『図説 歴史の研究』1972
「私は生涯を通じて、人間事象を全体的にひとつの統一体として考えるよう説いてきました.特に西欧の友人に、西欧すなわち全世界と考えるような過ちに陥らないよう説得」してまいりました。すなわち東アジア、インド、イスラム世界、アフリカ,そして東方キリスト教(ギリシャ正教)世界の各文明が果たしてきた役割は、人間事象にとってはどの一つをとっても、少なくとも西欧のそれと同じく重要で創造的であることを、納得するよう力説してきたのであります。それぞれの文明が達成した業績は、すべてわれわれ人類の尊厳に、貴重な貢献を果たしているのであります。」
「トインビー・市民の会Jへのメッセージ」1988
「祖国が汝に何を為し得るかを問い給うなかれ、汝が祖国に何をなしうるかを問い給え!」 J.F. Kennedy 1961年就任演説