日本文明が世界を救う


   中西真彦 市民国連 理事長・産業NPO会長 

        早稲田大学理工総合センター顧問

 

 










“日本文明が世界を救う”

序章


       
日本国は今、溶解が始まっている。縄文時代のはるか昔から、営々として醸成され、脈々として受け継がれてきた日本文明の骨髄が溶け始めている。人の一生には浮き沈みはつきものであり、栄枯盛衰は世のならいである。「平家物語」は言う。「祇園精舎の鐘の音,諸行無常の響あり,沙羅双樹の花の色,盛者 必衰の理をあらはす」と。しかし乍ら、人間は金銭の為に、自分の損得の為に、恩人を裏切ったり、大恩ある親をなぐり殺したり、犬や猫の畜生でも吾子は命がけで守るのに、自分の都合で吾子を殺す。こうなれば、その人は、人間の人間たる精神が溶融してしまったのであり。復活と再生はありえない。今、日本の社会では、このようなおぞましい出来事が日常茶飯事に頻発している。日本人のアイデンティティーすなわち「日本国の精神」は、再生不可能な臨界点に近づきつつあると言えよう。文明史的にみると、日本国の二十世紀は、明治維新の偉業を成し遂げ、国家の近代化の為に西欧先進文明を柔軟に且つ大胆に取り入れエポックメーキングに成功した。そして大国ロシアとの戦争に世界を驚かせる大勝をした。この時点までは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に活写されている如く、日本人のアイデンティティーとその精神は生き生きと躍動し、日本文明はまぎれもなく光彩を放っていたと言える。しかしながらその後の大正期から昭和にかけての二十世紀前半は、軍閥による右傾化が進み、国家の破産が待ち受けている太平洋戦争へと突入して行ったのである。

 昭和二十年、敗戦により壊滅的打撃を受け、国家解体の危機に瀕したが、廃塵の中から不死鳥の如く立ち上がり、世界の奇跡と言われた復興を成し遂げ、経済大国へと成長して行った時点で、未だ日本文明のもつ明治以来の良き伝統の精神構造は、国家・国民の中に生き続け、日本人のアイデンティティーとして、これぞ日本人と言える世界に誇れる美質を持っていた。であるが故にこそ、世界が賞賛する「奇跡の復活」もあり得たのである。しかし乍ら現在の日本は、あたかも、昔の再影も偲べない程別人の如く変貌した人の如くになりつつある。
 
 恐るべきは教育である。教育を誤れば国は滅びに至る。終戦時にアメリカ占領軍によって、全体主義・軍国主義体制復活の阻止の為に、日本人の精神構造を大きく変革する意図をもってなされた教育の改革は見事に成功したと言えよう。憲法に比肩出来る「教育基本法」の精神・理念によって教育され洗脳され成長した日本人は、今や終戦時より六十年を経過して、親・子・孫の三世代にわたっている。結果として、伝統的な日本人の美質であったその独自性は徐々に失われて行き、アメリカ文化の色に染めあげられてしまったと言っても過言ではないであろう。その文明の特色は一言で評すれば、ヒューマニズム(人本主義)を最高の価値あるものとして「個人」の自由と個人の権利こそ最も大切なものとする「個人至上主義」であり、「自由こそ最も尊ぶべきもの」とする「自由競争主義」であり、物質的豊かさこそ人生にとって最も重要とする「経済第一主義」である。

 他方世界はどうであろうか。人類社会は二十一世紀に入っても、あらゆる視点から見て危機的状況にあると言える。二十世紀は世界大戦を二度経験して、人間の大量殺戮を繰り返し、又社会主義陣営の国家では、誤った国家運営の理念の下に、反体制側の同胞を何百万・何千万人と殺す内戦を行う等した残酷な世紀であった。二十一世紀に入ってこの二十世紀への反省と教訓が生かされているであろうか。国際社会では、政治的には東西両陣営の思想的・軍事的対立は解消したが、米ソ対立に替わって米中対立の不気味な胎動が始まってきており、中東でのイラク問題始めイランの核保有問題等、イスラム圏文明と西欧キリスト文明の対立抗争は泥沼化し、アメリカの強力な軍事力による一極支配にも綻びが見え始めている。
 
 他方世界の平和と秩序維持の役割を果たすべき国連は、各国の国家主権に立ったナショナルインタレスト(国益)の鬩ぎ合いで立ち往生して機能せず、アナン事務総長をして“国連は死んだ”と嘆かせるような事態に有り、日本では国連への信仰と国連への幻想が未だ根強く残ってはいるが、アメリカも欧州も国連への信頼は紛れも無く低下している。サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」で述べている如く、世界は各文明圏の対立・衝突が益々増幅し、出口なき袋小路に入ってしまっていると言えよう。

 世界は又、市場原理主義経済の拡大に伴い、貧富の格差が広がり世界人口の過半数の人々が、まともな住まいと食にありつけない反面、富める国々では、物質的豊かさ第一主義・経済至上主義がはびこり、一つの文明が滅びに至る前兆である精神性の尊重が希薄となり、様々な社会の病理現象を引き起こしている。このような現実の結果として、自然の破壊が進み、人間による自然の征服すなわち地球環境の破滅をもたらし、人類は自らの手で地球と言う素晴らしい惑星を存続不可能にしようとしている。地球環境問題への対策は単に国際的な枠組みで共同して取り組みましょうと言っても不可である。この問題の解決には、物質的豊かさへのあくなき欲求、即ち経済第一主義の現代の文明の大きな反省が不可欠であり、その為には現在、世界を支配している西欧キリスト教文明のもつ人間至上主義の理念に替わる新しい文明理念が必要となる。
世界はこのまま破滅への道を進むのであろうか。はたまた現代文明の主役であった西欧キリスト教文明に替わる新しい文明、すなわち世界を救うことの出来る新しい文明の登場を期待できるのであろうか。

 ここで結論を先に言えば、われわれは日本文明の中にこそ、この新しい文明の理念が隠されていると考えている。この課題に応えるのが本稿の目的であり、本文で詳しく述べる予定であるが、その前に「日本文明」なるものの定義について少し触れておきたい。世界には様々な文明が有り、その分類も学者により色々言われているが、ここでは世界を七大文明に分ける説を紹介すると、西欧キリスト教文明・ロシア正教文明・イスラム文明・ヒンズー文明・中華文明・日本文明・中南米ラテンアメリカ文明であり、その中の一つである日本文明は、中華文明やヒンズー文明の周辺文明としてではなく、一つの国で一つの大文明を形成している唯一の例であると位置づけられているのが文明史家達の定説となっている。「文明の生態史観」の著者であり、知られた文明論の学者である梅棹忠夫氏は、日本文明を独立した一大文明とする見方をとるべきであり、中華文明等の周辺文明、亜流文明であるとの見方には疑義を唱え、アジアの他の文明とは全く本質を異にする文明である事を強く主張している。この事は、日本文明こそ混迷する世界を救う事の出来る独創的な内実を秘めた文明であるとの「仮説」の下に、その独自性を探ってゆこうとする我々に、文明史、比較文明論の立場からの力強い援軍であると理解している。がしかし乍ら、日本文明なるものが、果たしてそのような実力と内実を秘めているものであるかどうかの、客観的な評価がなされねばならない。単に日本人であるが故の身びいきであっては意味がないわけであり、冷静且つ具体的な文明の内実への取り組みが求められる事は言うまでもない。しかし乍ら我々は本稿で日本文明を実証史学に裏打ちされた専門的な文明論として解説する力量もなければ意図もない。それ等については先人の優れた文明史家達(津田左右吉・和辻哲郎・柳田国男等々)の業績に学び、それをふまえて、我々の目的に挑戦して行きたい。我々の目的は、日本文明の基層に秘められている人間観・自然観・神観の哲学をえぐり出す事である。先人達が余り議論していない日本文明に内包されている独自の哲学は何かと言う点に焦点を絞って論述を進めたいと考えている。

 我々は従って日本文明が新しい世界の文明理念になりうる哲学を秘めている所以を本論で探ってゆくこととなる。そしてもしこの試みに成功し、読者の共感が少しでも得られれば、今、日本人の間にはびこっている歪められた史観や極端な自己卑下に走った国家観の是正や、それらによって自信喪失してしまっている若者達に、逆に日本に生まれてきた事を誇りに思えるようになる自信と夢を興える事となり、例えば大きな国家の課題である教育基本法の見直しと改革についても、単に制度の改革にとどまらず、内実である新しい教育理念=哲学の明示も可能となるだろう。占領下の進駐軍によるアメリカンカルチャーに基づく理念が色濃く反映している現在の基本法の内実こそ改正されるべき最も大切な核心部分であり、それは「日本国の精神」「日本人のアイデンティティー」を踏まえた、日本国の「国のかたち」である憲法と共に、日本文明の基盤の上に借りものでなく新しく構築されなければならないものである。更に又他の国家の諸制度の改革の為のあるべき方向性も示す事が出来るのではないかと考えている。   
幸いにして今、世界には新しい流れが起きている。かつての米国とソ連の東西対立の時代を超えて、対立抗争から連携協調への動きである。EU連合に始まり、米州地域ではアメリカ・カナダ・メキシコのFTAAの連携の動きがあり、又アジアでは東アジア共同体構想等が動き始めている。そして文明の衝突ではなく、文明の対話によって、各国がお互いに多様性を認め合い乍ら共存共栄してゆこうというものである。又、更には世界連邦を結成しようと目論でいる人々も居る。これらの動きは、これはこれで誠に結構な事ではあるが・・・、この場合、ただ多様性の集まりでは、烏合の衆であり、右往左往するだけとなる。この場合、不可欠なものは連帯を可能ならしめる絆となる哲学=理念である。そして矢張りどうしてもお手本となる文明が不可欠となる。その場合、かつての自らを中心に置き周辺国は一段下に見る所謂、(華夷秩序)の構築を目論む中華文明思想ではもはや通用しない。勿論現在の世界の指導理念となっている征服主義が基盤にある西欧文明の限界は実証済みである。日本文明のようなまず譲り、相手に合わせ、相手の長所は柔軟に取り入れ吸収し乍ら、相手と一つになって相手を救け相手に貢献してゆく哲学こそ求められる新しい文明理念ではなかろうか。上述の世界の連携協調の動きは、日本文明が世界に貢献する時代背景が準備されつつあると思えてならない。

 次に本稿の全体の構成を簡潔に骨子だけ述べる予定であるが、先ず論述の順序としては、文明論の基盤をなす人間観・自然観・神観のうち「人間とは何か」と言う人間観から始めるべきと考えている。これらの文明の基層にある哲学こそ文明の核心をなすものであるからである。我々は前回出版した「人間の本性の謎に迫る」(日新報道)(2005年9月10日発行)で人間論を論じたが、今回は日本文明や西欧文明の核心にある哲学として、各文明圏の人々が人間をどのように捉え、人間をどのようなものとして考えたのかを論じてみたい。例えば西欧キリスト教文明に於いては、旧約聖書に語られている如く、人間は「地上のあらゆる生きものをつき従わせる特別の存在」として人間至上主義がよみとれるが、日本文明に於ける人間は一言で表現すれば、自然の中に「自然と共に生きる」、更に言えば「自然によって生かされている存在」である。両文明を比較検討する事により両者の内に秘められている哲学が鮮明に浮かび上がってくるであろう。

 更に本稿では前回の人間論であえて触れなかった点であるが、人間は古来から謎である、いずこより来たりていずこに去るのかと言う、人間発生の始源問題に挑戦してみる。鎌倉時代の鴨長明の方丈記にも「知らず、人のいずこより来たりていずこに去るかを」とある如く、この問題は有史以来の人類の謎であり、従って前人未踏の困難な課題であるが、いずこに去るかの問題はさておき、いずこから来たかと言う始源者に向かって、現代生命科学を踏まえ、客観的に、主観的推論や宗教的信仰論は排除した解析に挑戦するつもりである。その目的は本稿の最後で述べる予定である倫理・道徳の新しい規範の確立に不可欠のものであるからである。道徳の退廃は目をおうばかりのおぞましい最低の水準にある。道徳の再生復活の為には結論を先に述べれば、他律的な教訓的規範は現代人にはもはや通用しない。必要な規範は、自律的な、こうすればこうなる!!この様に行動すれば結果はこの様になる。従って自ら自制すると言う説得力ある実践倫理の哲学である。この様な新しい倫理・道徳論は本文で最後に詳しく述べる予定である。

 ところで人間の究極の始源を探り、始源者の実在を想定することは「人間」と「自然」と「神」との三者の関わりを考えねばならない課題へと我々をいざなう事となる。そもそも人間と自然と神は根本的にどのようなものであり、三者は、それぞれどのような関係にあるかが問われねばならない。この文明を理解する上での基本条項と言うべき人間観。自然観・神観の解明は、各文明を知る上で不可欠なものである。現在世界を支配している西欧文明に替わる新しい文明の模範が日本文明にあるとすれば、日本文明の基底にあるこれらの哲学が、どのような特色を持ち、西欧キリスト教文明の哲学とどのように異なるのかを比較検討する事が必要となる。我々は本稿の主題である「日本文明が世界を救う」と言う課題に応える為に、この両文明の底流にある人間観・自然観・神観の哲学を抉り出し、両者を比較し乍ら論述を進める事としたい。このプロセスの中から西欧文明の長所・功績の明の部分と、限界であり短所である暗の部分が見えてくる筈であり、同時に日本文明の核心が浮かび上がってくれば幸いであると願っている。以下簡潔に本論で述べる骨子を紹介したい。
世界の文明は、一つの解釈として七大文明に分類されているが、二十一世紀の世界を支配しているのは、その中の一つである「西欧キリスト教文明」である。そこで比較文明論の手法で本論では西欧キリスト教文明が持つ明の部分と暗の部分の二つの側面を掘り下げてみる。
明の側面は一言で言えば、ルネサンスに始まり十九世紀から二十世紀にかけての自然科学の目覚しい発達と産業革命による計り知れない物質文明・機械文明の人類社会への恩恵であり、これは正に西欧キリスト教文明の果たしたものであると言えよう。
世界の多くの人々の物質的豊かさと生活上の利便さの向上は、未だこの恩恵に浴さない取り残された国々があるとは言え、この文明に負う所が大であると言わざるを得ない。
又、この文明圏の代表国家であるアメリカ合衆国は、様々な国々から多種多様な民族が移民してきて出来た連邦国家であるが、世界では未だ人種・民族・種族・宗教等の違いからお互い差別しあい、相対立して闘争する不毛の戦いの絶えない中で、アメリカは民主主義の旗印の下に、平等に人権を認め、内実はともかくとして一切差別せず包括して受け入れ、一つの連邦国家を見事に運営している。この姿は将来の人類の理想である地球連邦国家の先がけとも言えよう。
アメリカ建国は、ピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタンが信仰の自由を求めプリマスに上陸した時に始まる。独立革命の理念は、初代大統領のワシントンの「神よ!!我々をヨーロッパから導き出し新しい世界に連れて来たのはあなたでした。あなたは重い灰色のヨーロッパの歴史を繰り返されるのを望まない筈である。」との神への誓いの言葉に読みとれる如く、古い因習に囚われない新しい自由で斬新で開放的な国を創ることにあった。
この建国の理念は、アメリカ人の自由闊達で公明正大に何事にも率直に是は是として、非は非として認め発言する精神風土として定着しており、アメリカンカルチャーの素晴らしい特色と言えよう。そしてこの美質は、その後のパックス・アメリカーナの時代を実現する原動力であったと言える。
次に、西欧キリスト教文明の持つ暗の部分を掘り下げてみる。著名なドイツの文化哲学者オスヴァルト・シュペングラーは文化形態学を駆使してその著書「西洋の没落」で、二十一世紀には西洋は没落すると予言したが、我々はシュペングラーとは異なった独自の視点から解明し、この文明が持つ理念=哲学が、世界平和実現の為の指導理念としては、普遍性=絶対性にかける所以と限界を解説してみる事とする。
二十一世紀初頭の今、世界文明があらゆる面で閉塞状態にあり、パックス・アメリカーナの終りの予兆が見え始めているが、その所以は一言で評すれば、世界の指導理念である西欧キリスト教文明の内奥に秘められている哲学に遠因が隠されていると我々は見る。西欧文明はギリシャに発するヘレニズムとキリスト教を源流とするヘブライズムの流れがあるが、二十一世紀の現在その底流にあって今なお強い影響力を持ち続けているのがキリスト教である。ブッシュ大統領の演説にも、しばしば旧約聖書の言葉が引用されるのは人の知る所である。そもそもキリスト教は超絶一神論であり、一神教は他の神を、即ち他の宗教を否定し拒絶する。その当然の帰結として、他民族・他宗教への征服、闘争の歴史となって現れる。キリスト教の十字軍等の歴史もその一つであり、アラブ側からみた十字軍は、女・子供も皆殺しにしてその肉を喰らうすさまじい動物的な殺りく集団であった。現在の中東での際限なき“目には目を!”の報復合戦も、その根は深く、この様な宗教文明の対立抗争に行きつく。
キリスト教は旧約聖書以来、人間至上主義である。自然及び他の生物は人間によってつき従がわせられ征服されるものであるとの思想が存在する。
又、ルネツサンスの時代に生まれ、「啓蒙思想」の時代から政治に取り入れられるに至った世界観即ちヒューマニズム(人本主義)がある。ヒューマニズムは人間を至上の存在とみる点に特色がある。自然科学の発達と共に、人間生活の利便性向上の為に人間の為に自然はひたすら破壊されつづけ、今や森林の喪失は地球環境のメカニズムを狂わせる所迄きてしまっている。
西欧文明の政治上の基盤である「民主主義デモクラシー」は、人間が互いに相手の言う事を理解し、コンセンサスに到達し、これを基本に共同体を運営するところにデモクラシーがある。多数者の意見を吸い上げ多数決でモノゴトの正否を決める流儀であり、これは絶対専制君主による独断専行の政治形態よりははるかに勝る政治手法ではあるが、真理はしばしば多数決による決定の外にある事は、地動説を唯一人で多数の人々の天動説に反対しつづけたガリレオ・ガリレイを見る迄もなく、ギリシャの哲学者プラトンが指摘した衆愚政治の危険をはらんでいるものであり、現代企業社会での成功・失敗の鍵も、一人の先見力ある時代の流れを先取り出来る先駆者達の方が、多数者の賛成する採決にしばしば勝る事例が数多い事は周知の所である。
今一つの西欧自由主義社会の特色は「個人」を重視し「個人の自由」と「個人の権利」を最大限尊重する所にある。ギリシャ人は史上始めて人々を服従させる為のものではなく、個人個人の権利と自由を保障する事を目的とする「法」をつくった。ローマ人はこの法をギリシャ人から学び広く国際的に通用するような形に体系化した。個人と自由を基点として社会契約で成り立っているのが国家であり、このギリシャ及びローマの思想をうけて、いわゆる歴史的にはロックやルソーの哲学や「社会契約説」が思想的原点にある。これは批判を覚悟で批評すれば「人為国家」であり人間の智慧にもとづく作為の産物であると言わざるを得ない。
この事が当然の帰結として導き出すものは、人間は「善行の自由」よりも「悪行の自由」に走る性を持っており、無責任な自由が際限なく与えられる事となる。そもそもエデンの園で、神の警告を破って禁断の木の実を食べたのは、最初の人間であるアダムとイヴであり、これが人間の自由意志であった点が重要である。人間の原罪の基を作ったのは自由で有るとすれば、「自由」には宿命的な堕落への契機がはらまれていると言えよう。社会には様々な自由の乱用即ちポルノや犯罪を助長さす映画などが溢れ、又マスコミも商業主義とセンセイショナリズムの坂道を転げ落ちており大衆迎合のイエロージヤーナリズムに一部を除いて成り下がっている。この点は、アメリカ社会のみならずアメリカンカルチャーにどっぷり浸かってしまっている現在の日本も同じである。
この様な現代社会の堕落を救い、若者たちを目覚めさす為には、宗教家や道徳学者が声を嗄らしていくら、“社会全体や国家に貢献する善行をしなさい”“自分本位の自由気ままな悪行は止めなさい”と叫んでも最早、現代の若者達には通用しない。彼らに対してはその前提として“何ゆえ全体社会に奉仕し貢献する事が良い事なのか?自分本位の自由気ままな生活行動の方が善い事であり好ましいと思うが?”と言う彼らの反問に説得力のある回答を用意しなければならない。この回答を現代科学の実証理論に裏打ちされた哲学で答えようと考えているのが我々の「新しい文明の理念」である。
この部分は、新しい文明理念の核心部分でもあるので本論で詳しく述べる予定であるが、結論を先取りして言えば、これに対して、我々が主張している社会・国家観は自然の生命体がもつ摂理に合わせて運営されるべきあえて言えば「生命体的国家」であるべきと考えている。
詳しくは本論に譲るがそのポイントは、現代生命科学が明らかにしつつある生命体のもつ生体メカニズムは、個人(個の細胞)よりも全体社会(身体全体)こそ最重視され尊重されるべきものであり、個々の細胞の存在意義と機能は、身体全体を健康に健全に生かす為にのみ存在し、その為にそれぞれの役割が機能しているのであり、個々の細胞(個人)の勝手気儘な自由の下に機能し働いているのではない。例外としてガン細胞だけは自分の増殖の為に、自由に全体への貢献を無視して活動する。正常な個々の細胞達は時には自らの個の生命を投げ出しても、身体全体の成長発達に尽くす働きをするものである。オタマジャクシの尾を構成していた細胞は自ら死滅してカエルへの成長を促す等のアポトーシスと呼ばれる神秘的な自然の摂理がある。重要な事は、この様なメカニズムは人間の体の中で現実に行われている事実であり自然の摂理である。先ほど述べた社会契約説の様な人間の知恵才覚で考え出したものではないという事である。この厳然たる体内で行われている自然の摂理は、人間が構成員(メンバー)である「社会のあるべき原型」であるとの考えは、我々を捕らえて離さない説得力を持っていると言う事である。この科学が実証的に解明した生命体のもつメカニズム=自然の摂理のもつ、嚴然たる真理は、他の人間の知恵から考え出された原理を圧倒する力を持っている事を誰しも認めざるを得ないであろう。
地球発生以来の生命あるものの進化の過程を見ても、個々の生命体・生物は永続し、次世代に受継がれてゆく「種の生命」の進化発展の為に、ひたすら働き貢献し、活動して一生を終えるメカニズムになっている。小鳥たちが成長して、メス・オス交尾して次世代に続く種の生命を生み、巣作りに忙し気に活動するのも、みなこの生命のもつ自然の摂理のなせる業であり、同種間は勿論、異種の生物の間にもお互いに救け合いの行動がある事は、最新の進化生物学の教える所であり、ダーウィンの説いた弱肉強食の自然淘汰の法則は進化の一面にすぎない事を知るべきである。

転じて、日本文明であるが、我々は実証史学に裏打ちされた専門的文明論を展開するつもりはない。我々は日本文明の基層に秘められている「哲学」に焦点を絞る。ところで日本の古代人達は、神は森や山や岩に宿ると見た。「かんながら」と称される神道には、教祖・教義・戒律などはない。古代人達が自然に接し、その中から直接に感じ取ったものだからである。これは普通にはアニミズム(精霊崇拝)と呼ばれ近代の合理的精神からは宗教の原始的形態として、未熟なものとして否定的・懐疑的に取り扱われる事が多いが我々は逆に肯定的に評価したい。
日本の古代人達にとって神はキリスト教やイスラム教の様に天に超絶してあるものでなく自然の中に内在する「自然神」であり「先祖神」であり「人格神」であった。自然界を吾が身体としているもの、即ち偉大なる生命であると見る。人間と神の関係も、キリスト教のように、天にまします唯一絶対者と原罪を背負った罪人の関係でなく、神は人間の真実の親であると見る。そして、又生命あるもの凡ての親は、昆虫であれ、小鳥であれ犬や猿であれ、子を大きく広い慈愛の心でいつくしみ育てるものである故に、神の心も慈愛に満ちたものであると考え尊崇したのである。即ち、自然=神に和し、自然の摂理に自ら合わせる心、他者と和の為に先ず譲る心、更には相手を救ける心、全体の為に自らを捧げる心、一言で表現すれば「和譲の心」を大切にした。
この「和譲の心」とも呼ぶべき日本人の精神構造、即ち日本人のアイデンティティーは、古くは「古事記」に記されている大国主の命の国譲りの神話にある。敵として戦った相手に譲り和す広く大きな心であり、譲られた天つ神系の天皇側も元々の土着の国つ神系の人々を敬い神として巨大な社を建立して祀ったのである。
時代が下がって飛鳥・奈良朝では、聖徳太子の十七条の憲法の中の重要な憲章として「和をもって尊しとなす」と唱われている精神は余りにも有名な所である。奈良時代には強大な先進大国であった唐の異文化を柔軟にどんどん取り入れ我が物として律令国家体制を整えると共に、唐の絶対君主制の異質さに対しては、毅然として日本独自文明のバックボーンを守りこれを受け入れず、朝鮮半島のように中国化しなかったのである。更に下って明治維新においても、西欧文明の優れた長所は鋭い目で高く評価し、尊皇攘夷の方針を柔軟に転じて開国し、江戸城を無血開城で譲る大きな精神を発揮した。又、武士階級も自らの優先的地位に固執せず、国家の将来の為に和譲の心を発揮して、自らその特権階級の地位を投げ出し国家全体を救ける為の改革を推し進める事でこの難局に対処し、見事に近代国家へと脱皮したのである。二十世紀の代表的な文明史家トインビーやハンチントンも強い興味を示した明治維新の無血革命の秘密は儒教や仏教の影響も考えられるが、本質的には日本人のアイデンティーとして古代からその血の中に流れている「和譲の心」とも呼ぶべき哲学にあったと言えよう。

次に、視点を変えて日本文明史をその文化遺産を辿りながら取り上げる。最近の考古学の発掘調査により、日本国内では青森県の三内丸山遺跡始め鹿児島県等にも七・八千年前の縄文時代に既に当時としては先進的な文化があったと思われる土器が出土している。著名な青森県の三内丸山遺跡の集落を調査した考古学者はすでに古代人達が集落を二ツのグループに分け、Aグループでの葬らいや、お祝い事はBグループが仕切り逆の場合はAグループが仕切ったと思わせる形跡を発見し、この様なペアの部落運営の政治形態を「双分原理」と名づけている。
弥生時代に入って、日本最初の古代の出来事を記した歴史書として和銅年鑑に編纂された古事記は、貴重な「歴史書」であると共に、そこに登場する日本武尊や弟橘姫等の人物たちの魅力的な躍動感に溢れた人間像が時代背景と共に巧みに描かれた「文学作品」でもあり又、日本文明の原風景と哲学が見てとれる貴重な文化遺産である。少名彦命の逸話や、袋背負い心の挿話に秘められている哲学は、“自らの働きと犠牲で他人に尽くし、他者を救けてなお且つ、その事を誇らない心”、これは後世の優れた倫理観である「陰徳」に通ずる素晴らしいものである。万葉集や古今和歌集にみられるような叙情性豊かな詩の数々は現代の我々の胸を熱くさせるものを持っているが、この事はこれらの歌が創られた弥生時代初期より、はるか以前の縄文期から日本独自の文化が息づいていたと思わざる得ない文化遺産である。
平安朝文化の代表である源氏物語は現代に於いても世界の一級の文学作品に負けない高い芸術性の香りを放っている。鎌倉武士に愛された禅宗の死生観や足利幕府時代の室町文化の代表である「茶の湯」のとぎすまされた精神性は、他の国の文明には類がない。江戸文化の数々の華の中でも写楽の浮世絵は世界の芸術家達に強い影響を与えたとして高い評価を受けている絵画芸術の逸品である。これらの日本文化は、日本人が古代から四季に富む繊細な自然風土の中から育んできた日本独特のものであると言えよう。
日本人は自然の恵みに感謝し、自然を愛し、自然と共存し自然の懐に抱かれるのを好み、四季の虫の鳴き声や小川のせせらぎの音にも感動したのである。中華文明やヒンズー文明にはこの様な繊細さは求むべくもない。日本文明は間違っても中国文明の支流亜流ではないと知るべきである。

次に、古代人達の持っていた「神観」について述べる。
これは、極めて重要な事であるが、彼らは神は一元ではなくて矛盾する二つの生命である二元性をもつものである事を鋭い感性と直観力から知っていたと思わざる得ない事実が残されている。それは日本で最も古いとされている縄文期から存在する古社では、例えば「火の神」を祀る社と「水の神」を祀る社は至近距離ではあるが別々の社として祀られている。古代人達が生き生活していく上で不可欠のものが、「水」と「火」であったわけでありそこに神を見たのである。(大和の大三輪社)天皇家の氏神である伊勢神宮に於いても、縄文期からの古社の名残として、余り一般には知られていないがアラミタマとシズミタマの二神を祀る社が別々に存在する。古代人達は荒れ狂う海と静かにないだ平穏な海との中に二つの神の実在を直観したのであろう。又人間の生きる基本的な営みである男女による子孫繁栄の生殖活動の中に、二つの神の働きの神秘の摂理を見取ったものと思われる。現代の生理学・生物学では常識であるが一個の人間の誕生=発生は精子と卵子の二ツの存在があって可能になっている。この古代人の凄さは、現代分子生物学が明らかにしつつある人間の生命体のもつ二元のメカニズムを知っていたと思えるような所があると言う事である。DNAとRNA、エクソンとイントロンはペアで働く。染色体は二本で一対である。不思議にも全てペアの行動であり、DNAの二重螺旋構造もそうだし、四つの塩基文字は必ずAとT、CとGが結びついてペアを組んでいる。そして遺伝子の働きもONとOFFの二つがある。人間の生理の働きも、医学の中で先端を走る免疫学者によれば、人間体内の健康を守る最も重要な免疫機能は、基本的に交感神経と副交感神経と云う二つの自律神経による司令塔のペアの働きでコントロールされている。これらの事実は何か生命の根源自体が二つの原理によって、形成されていると思わざる得ない生命体の不思議である。
二元論哲学(これは哲学史上のデカルトの物質と精神の二元論ではない)は当然の事として人間存在の基盤でもあり、人間はその精神構造は知性(ロゴス)と感性・情感(パトス)の二元で成り立っている事は哲学史の教える周知の所である。知性の所産が学問であり、感性・情感の所産が芸術である。物質としての肉体も還元してゆけば究極的には分子となり原子となり、素粒子となって最後は「エネルギー」とそれを制約する「空間」の二元に帰着する事は現代の先端理論物理学の教える所である。
従って人間の集団によって営まれる社会・国家運営の政治理念や経済原理も基本的に二元であらねばならぬ道理であると我々は考えている。「自由」と「平等」の理念はいずれを欠いても、又、いずれか片方を重視し尊重しても、その国家社会にはヒズミが生ずる事となる。自由の理念を追放して平等の理念のみを重視して、国家運営のマグナカルタとしたマルキシズム信奉の国家は崩壊した事は歴史の事実が教えている。 
自由の理念を至上のものとして重視するアメリカ文化は、この自由競争主義の故に即ち自由競争が本質的にもつ活力の故に活気に満ち進歩拡大はするが、泣き所は社会を勝者と敗者に二分し、勝者は益々強大となり、敗者は益々弱小となって、上下二極の乖離が始まっており、行政的に修正を加えつつも益々貧富が分離し社会不安の要因となりつつある現実がある。これは二元の内、片方の原理のみを重視し、他方を軽視した結果であり、このまま推移してゆけばいずれ自由の理念を軽視した国と同じ道をたどる事は避け難い道理であると我々はみる。フランシス・フクヤマ氏の論文「歴史の終り」は、アメリカに代表されるリベラルな民主主義の勝利を謳っているが、ニーチェの言う動物的な物質第一主義の欲望にどっぷりつかった「最後の人間」を超えて歴史が終末を迎えた後、可能性として平和を手に入れるには、上述のような日本文明に基づく「新しい文明理念」が必要であると思えてならない。

西欧キリスト教文明は十九世紀から二十世紀にかけて、世界人類にはかり知れない物質的豊かさと生活上の利便さを提供して呉れた。又、この文明の申し子とも言えるアメリカンカルチャーは、ひとときは光彩を発揮してパックス・アメリカーナを実現した。

しかしながら二十一世紀初頭の今、この文明に、シュペングラーの予言の如く陰りが見え始めてきている。ここに一つの実話を紹介する。
日本の大企業であるメーカーの且つての企業戦士であったOBが語る。今より20〜30年前の出来事であるが、アメリカの代表企業であるゼネラルモータースに自動車重要部品であるクランクシャフトの新しい技術を秘めた画期的な新製品を売り込みに行った時の事である。GMはその製品と技術の革新性に驚き注目し、次々とスペックの資料を要求してきた。彼は将来の取引実現を当然の事として期待し、その要求に応じて行ったのであるが、その時点でGMは密かに自社のアメリカ企業である取引先を呼んで、その技術情報をどんどん流し吾が物とした上で最後に冷談に“購買は一社主義であるから”と断ってきたと言う。この事実から読み取れる事の意味は重要である。
これには、あのアメリカ建国の時、初代大統領ジョージ・ワシントンが神に誓った建国の基本精神である因循姑息を嫌い何事にも公明正大に是は是とし、非は非とする自由活達な美質は最早見当たらない。そして。そのGMは今や世界トップの栄光の座から降ろされ様としている。この出来事が我々に語り掛けるものは、一つの文明の終りの予兆である。
  最後に読者の皆様にご理解戴きたい本稿の著述の基本スタンスについて述べておきたい。我々の上述のような日本文明についての解釈は、一つの仮説に立った解明ではある。がしかしなが、この様な人間と自然と神との根源的関わりについての問い掛けは、ギリシャの昔から形而上学の課題として研究されたものであると共に、今後は将来にわたって各分野の学者・研究者によって、それぞれ専門的な学問研究がなされねばならないものである。その場合その研究者達が実証的研究の作業に入る前に、その作業の出発点で定立するであろう研究の目標としての或る仮説が必ず必要である事は知られた所である。我々の論稿は、これらの研究者達に仮説となるヒントを提供したいと願っているものである。科学の論究は多くの実証実験の難作業に入る前に、必ず研究者は一つの仮説を定立して研究に入るわけであるが、もしその定立した仮説の方向が間違っていれば、いくら努力しても良い成果は得られない道理である。従って出発点でどうゆう仮説を定立するかで勝負は既に半分以上決まっている道理である。我々は今後登場するであろう若き研究者達に適切な正しい方向性をもった仮説の定立の為に手助けとなるであろうヒントを、少しでも提供出来ればと願っての事であり、我々の本稿での論説を直ちに真理であると断じようとは思ってもいないことを付言しておきたい。

 もう一つの本稿の基本スタンスについてお断りしておきたい。現代は学問分野がそれぞれ発展した結果、細分化し、専門化している。専門分野外の人間が、他分野の見識を論ずることは、独断と偏見、又は素人意見として一笑に付されるか排除される傾向にある。我々は学問のあるべき姿は、今一度二千年以上昔のギリシャ哲学の時代のスタンスに戻るべきであると考えている。当時のギリシャ哲学には、自然学も、政治学も、社会科学も人間学も、宇宙自然の根源を尋ねる形而上学も凡て内包されていた。であるが故にこそ人間や自然や神の真理に鋭く正しく迫る事が出来たのではなかろうか。現代の学問体系のように、余りにも細分化し専門化して、それぞれの学問領域の中に埋没している専門馬鹿と揶揄される巨視的視点の欠落した人達には、逆に真理は遠くなりにけりと言えるのではなかろうかと我々は思っている。
  
 従って本稿のこの試みは、或る意味で、大胆不遜な挑戦であるが、この様な巨視的な視点から学際的・統合的に課題の真相に迫る手法は、各学問分野の専門化が進みすぎた今日、再び求められている道ではなかろうかと我々は考えている。ましてや「人間とは何か」「神とは」と言った大きな課題については言う迄もないであろう。世界的なベストセラーとなった「人間この未知なるもの」(渡部昇一訳)を書いたアレキシス・カレルは、専門は医者であったが、壮大な巨視的視点で、人間この未知なるものの真相に迫る勇気ある挑戦を試みた偉人であり、その著作の勝れた内実と共に尊敬すべき人物であると高く評価したい。我々も力不足ではあるが、先人達の勝れた諸学問の知見を活用しながらカレルの後に続きたいと願っている。

      平成18年11月3日
                          市民国連 理事長 中西 真彦