第39回地球市民フォーラムへ
 
「小型武器問題-国連行動計画の履行と日本の取組み」

   益子 崇さん国連軍縮部 プロジェクト調整官

   大村 周太郎さん(コメンテーター)国連日本政府代表部 参事官

時: 2007年7月12日開催
於:ニューヨーク日本政府国連代表部会議室
国連邦人職員会/国連日本政府代表部/国連フォーラム共催 合同勉強会


■ はじめに
■1■ 小型武器とは何か
■2■ 国連小型武器行動計画について
■3■ 国連小型武器行動計画履行検討会議について
■4■ 小型武器に関する様々な取組
■5■ 日本の取組み
■6■ 日本政府の立場から【大村さんからのコメント】
■ 質疑応答


 はじめに

はじめに、国連事務局軍縮部について説明したい。2007年初頭には潘基文新事務総長の国連改革の一環として、軍縮局が政務局に吸収合併される、という案もあったが、軍縮局(Department for Diisarmament Affairs)を軍縮部(Office for Disarmament Affairs)とすることで決着がついた。軍縮部の長はレベルとしては事務次長のままだが、肩書きとしては「軍縮担当上級代表(High Representative for Disarmament Affairs)」となった。昨日、ブラジルのセルジオ・ドゥアルテ大使が上級代表として着任したばかり。ドゥアルテ大使はブラジルの外交官として40数年のキャリアを持ち、2005年の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議の議長も務め、軍縮問題への造詣も深いと聞いている。

事務総長報告(A/61/749)では「軍縮問題を活性化させるために、最高レベルによる確固とした指導力が求められている」と述べられている。包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効もなかなか進まず、2005年の核兵器不拡散条約運用検討会議は失敗に終わり、2006年の国連小型武器行動計画履行検討会議(以下、再検討会議)も成果文書の採択に至らなかった。こうした状況の中で軍縮局が軍縮部に変わり、軍縮担当上級代表という新たな肩書きが作られたことについては、上記の事務総長報告にもあるように、「柔軟性、敏捷性、事務総長への近接性」を最大限に発揮できる組織とすることで、事務総長直轄で軍縮問題を扱っていくという事務総長の意思の表れだと理解している。

軍縮部には、小型武器問題を扱う通常兵器課(Branch)のほかに、核兵器及び生物化学兵器を扱う大量破壊兵器課、ジュネーブ軍縮会議を担当するジュネーブ支部、ペルー共和国のリマ・トーゴ共和国のロメとネパールのカトマンドゥ(NYから移転協議中)にある三つの地域センター等がある。職員は総勢80名ほどで、以前は局であったことを考えると、規模は非常に小さい。そのうちニューヨークに勤務しているのは約60名で、専門職と一般職がおよそ半々である。私が所属している通常兵器課の中で小型武器問題に携わっているのは私を含めて4名である。

2002年にリマの地域センターが中心になって小型武器を破壊するイベントが開催され、私もニューヨークから参加した。ペルーでのゲリラ活動や犯罪に使われていた武器が押収されていたのだが、警察の武器庫の棚に収まりきらず、床に血のついた銃が放置されて転がっているという状況だった。武器を破壊する前に一挺一挺について型式、製造番号等の記録を取り、「完全に、不可逆に、検証可能に」という国連が定めた武器破壊の原則に従い、3日間で銃を検査していった。検査した銃は全部で2200挺に上ったが、中には弾薬がそのまま残っていたものもあった。武器を取りまとめた後は警察の護衛つきで溶鉱炉に運び、まとめて約1500度の高温で溶かす。溶かした鉄は鳩の形をした鋳型に流し込み、平和の象徴として公園に展示されているという。こういった形で、国連小型武器行動計画(以下、行動計画)に則った破壊活動が様々なところで行われている。

行動計画には二つの大枠がある。一つは国際的な規範作り、もう一つは、行動計画をどのような仕組みで実施していくか、関係者・機関をどのように調整していくか等、履行していく上での具体的施策である。この大枠に基づき、様々な観点から小型武器問題への対応が進められている。

■1■ 小型武器とは何か

小型武器とは何か、という定義は、行動計画においては明確には示されていない。2005年に採択された「国連非合法小型武器の特定と追跡に関する国際文書」では、small armsは個人で携行・使用できる兵器とされており、カラシニコフ、ライフル、自動ピストル、リボルバー、サブマシンガン等が含まれる。一方light weaponsは2~3人がチームとなって携行・使用する兵器とされ、マシンガン、ポータブルミサイルランチャー(肩撃ち式ミサイル)、100ミリ以下の迫撃砲、グレネードランチャー(手榴弾発射装置)等がここに分類される。日本語では、このsmall armsとlight weaponsを併せて小型武器と総称している。弾薬、爆発物、地雷は小型武器には含まれない。

国連では統計はとっておらずあくまでも参考値ではあるが、小型武器の蔓延を示す数字として以下のようなものがある。合法・非合法を問わず世界中に蔓延している小型武器の数は7億5千万から10億。紛争に関連して主に小型武器によって命を落とす人は年間30万人。紛争以外の状況で小型武器によって命を落とす人は年間20万人。小型武器の製造数は年間800万。小型武器の貿易額は年間40億ドル。

小型武器が問題となるのは、多くの人数を簡単に殺傷することができるからである。アナン前事務総長は、小型武器は事実上の大量破壊兵器であると述べた。非合法な小型武器が特に蔓延しているのは、その環境から、アフガニスタン等の紛争下の状況と、南米等暴力や犯罪に関連する状況の二つに大別できる。

■2■ 国連小型武器行動計画について

2001年の国連小型武器会議にて採択された行動計画(正式名称は「小型武器非合法取引防止に向けた行動計画」)には法的拘束力がなく、あくまでも政治文書としての位置づけとなっている。この行動計画を法的に拘束力のあるものとすべきとの議論もあったが、軍縮の世界では作業部会における意思決定は全会一致でなければならないので(コンセンサス・ルール)、この行動計画も最終的には政治文書として落ち着いた。この行動計画における主な行動主体は加盟国(states)であり、国家が一義的な責任を負うことになっているが、このほか地域機関、国際機関、市民社会もそれぞれ取組を進めることが推奨されている。

行動計画について、キーワードを追いながら内容を見ていきたい。前文に続き、第二部では、国家レベル、地域レベル、世界レベルでそれぞれ取るべき施策について順に述べられている。主なものを挙げると国家レベルでは、小型武器の非合法な取引について刑事罰を適用すること、外務省・内務省・防衛省・法務省等国内の関係機関を調整する仕組みを作ること、小型武器問題に関する連絡窓口を設けること、小型武器の製造・輸出入・合法取引を免許制にすること、非合法取引の仲介者に対する罰則を定めること、余剰武器を適切に管理すること、国民に対する啓発活動を行うこと、紛争下で子ども兵士として働かされる子どもを保護すること等が求められている。また、世界レベルでは、国連安全保障理事会が発動する武器禁輸措置と連携すること、非合法な小型武器を追跡する仕組みを強化すること等としている。

2001年に行動計画が採択されてから2006年に再検討会議が開催されるまでにどのような成果があったかということについては、2003年と2005年の中間会合で各国の取組が報告されている。2003年の第一回中間会合は日本の猪口軍縮大使が議長を務めた。これまでに145カ国が小型武器問題に関する連絡窓口を設け、80カ国以上が国内に調整機関を設置し、141カ国が行動計画に関する報告書を提出した等の成果が報告されている。ある統計によると、1990年から2007年までの17年間に破壊された小型武器は830万挺とのこと。他方で、小型武器の製造数が年間800万挺であることを考えると、17年かけて廃棄してきたものが毎年新たに作り出されていることになる。



■3■ 国連小型武器行動計画履行検討会議について

2006年6月末から7月にかけて、再検討会議が開催された。この会議でどのような成果があり、どのような点が不調に終わったかを考えてみたい。ある国のロビー団体はこの再検討会議に対する反対活動を繰り広げ、関係者に何万通もの抗議文書を手紙、ファックス、電子メール等で送りつけた。国連で議論されるのはあくまでも非合法に取引される小型武器を取り締まるための枠組であり、加盟国の国内法に則って合法的に市民が武器を所持することについては国連の管轄外であるため関与しない。そのことをこれまで何度もはっきりと説明してきているが、こうしたロビー団体はそれを承知の上であえて反対活動を続けている。

再検討会議で参加国の意見が分かれた項目については以下のようなものがある。まず、行動計画をいかにフォローアップするかという仕組みについては、国連で小型武器について話し合う必要はない、と強硬に主張した国があり、そのことが再検討会議が不調に終わった原因となった。その他は、弾薬や携帯式地対空ミサイル(Man-portable air-defense systems, MANPADS)を小型武器の範疇に入れるか入れないか、市民が小型武器を所持することについて言及するかしないか、反政府ゲリラは行動計画の行動主体となりうるかどうか等の議論があった。また、発展途上国からは、開発と小型武器の関係についてより明確に言及してほしいとの希望も出された。結局、行動計画のフォローアップの仕組みを2006年以降どうするかということについて合意できなかったため、何度も草案を書き直しながら2週間にわたって議論したにもかかわらず、成果文書を採択することができなかった。これを救ったのがその年の第一委員会と総会(第61回)で、2008年に第三回中間会合を開催することについては、かろうじて採決された。しかし、再検討会議でまとまらなかった点に関する意思決定をどうするかということについては未定のままである。

行動計画から新たに発展した取組としては、小型武器の追跡(tracing)が挙げられる。小型武器を製造する時、そして輸出入をする時には再度、刻印を行い、記録を管理することで小型武器を追跡可能にしようとする取組である。国際刑事警察機構(Interpol)では、銃の型式やモデルを特定し、その個体が過去に犯罪に使われたことがあるかどうかを調べられるようなデータベースを試験運用中である。

また、非合法取引の仲介(brokering)に関する取組も進んできている。武器取引を行う業者を免許制度に基づいて登録し、非合法取引に対する懲罰を設けて国際的に管理していこうとするものである。非合法取引については、どこか一つの国の法律が整備されていなければその国を拠点にして非合法取引が行われてしまうため、国際的な歩調を揃えることが必要となる。非合法取引の仲介については政府専門家会合(GGE)も開催されており、その報告書が今年の総会(第62回)に提出される。日本からも専門家が参加した。

2006年の再検討会議が不調に終わったのは、今後小型武器に関する国際基準を設定するにあたって限界が見えてきたからという背景もある。常に反対する国があれば、合意を形成するのは困難になる。

■4■ 小型武器に関する様々な取組

行動計画とは別に、武器貿易条約(Arms Trade Treaty)を実現するための取組が進められているが、新しい条約を作るにあたっては、実現可能性、何を対象とするか、貿易が制限されるべき具体的な状況(パラメーター)をどうするか等、議論しなければいけない点がたくさんある。2006年12月に国連総会決議で武器貿易条約を目指した決議が採択されて以来(国連総会決議61/89)、各国が事務局に意見を提出している。また、行動計画に含めるか含めないかで意見が分かれた弾薬や携帯式地対空ミサイル(MANPADS)については、行動計画とは別に決議が採択されている(弾薬については国連総会決議61/71、MANPADSについては国連総会決議60/77)。また、国際組織犯罪を防止するという観点からは、法的拘束力を持った議定書(「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する銃器並びにその部品及び構成部分並びに弾薬の不正な製造及び取引の防止に関する議定書」2005年7月に発効)が存在する。

国連ミッションが武装解除・復員・再統合(Disarmament, Demobilization and Reintegration, DDR)に従事する際の小型武器への配慮を定めた「武装解除・復員・再統合についての総合的基準(Integrated Disarmament, Demobilization and Reintegration Standards, IDDRS)」が2006年12月に発表された。この基準は、短期的な平和維持の取組が実施されている最中に、長期的な開発課題も見据えて小型武器の管理を進めようとするもの。DDRウェブサイトからダウンロードできる。また、平和構築における治安部門改革(Security Sector Reform, SSR)の枠組みにおいても、小型武器の管理を進めるべきとされている。

国連通常兵器登録制度というものがあり、1992年に設立されている。これは、(1)戦車、(2)装甲戦闘車両、(3)大口径火砲システム、(4)戦闘用航空機、(5)攻撃用ヘリコプター、(6)軍用艦船、(7)ミサイルおよびその発射基、の七つのカテゴリーにつき、輸出入または移転があった場合に国連に届け出るという制度である。現在140カ国ほどが参加しているが、2006年からはオプションとして小型武器の報告も可能にするために統一書式が設定された。

2週間ほど前(6月29日)には、小型武器行動計画実施の重要性を認め、今後2年に一度定期的に安保理で小型武器について審議するという安保理の議長声明が出された。実際には、2001年以降は毎年安保理で小型武器について審議が行われてきており、安保理が発動する武器禁輸措置との関係における小型武器の重要性も指摘されている。しかし、安保理で小型武器について議論することに反対する国もあり、2年に一度ということになった。

国連以外の機関においても、法的拘束力を持ったものも含めて、それぞれの地域で小型武器の枠組作りが進められてきている。たとえば、" 西アフリカ諸国経済共同体(The Economic Community of West African States, ECOWAS)における小型武器管理プログラムの発足(2006年)" アフリカ東部諸国11カ国による小型武器ナイロビ議定書の採択(2005年)" 南部アフリカ開発共同体(Southern African Development Community, SADC)による議定書(2001年)" 欧州連合(European Union, EU)による「武器輸出に関する行動規範(European Code of Conduct on Arms Exports)」の採択(1998年)" 欧州安全保障協力機構(Organization for Security and Co-operation in Europe, OSCE)における「小型武器に関する文書(Document on Small Arms and Light Weapons)」の作成(2000年)" 通常兵器及び関連汎用品・技術の輸出管理に関するワッセナー・アレンジメント(The Wassenaar Arrangement on Export Controls for Conventional Arms and Dual-Use Goods and Technologies)が制定した小型武器輸出に係るガイドライン(2002年)" 米州機構(OAS)による「銃火器、弾薬、爆弾及びそれに類する機材の製造及び不正取引に関する米州協定(Inter-American Convention Against the Illicit Manufacturing of and Trafficking in Firearms, Ammunition, Explosives, and other Related Materials, CIFTA)」の採択(1997年)" 中米統合機構(Sistema de la Integracion Centroamricana, SICA)による武器の不法所持等に共同対処するための行動計画の採択(2005年)等がある。

また、16の国連部局および専門機関が小型武器に関する政策調整を行う協議体として、小型武器行動調整メカニズム(Coordinating Action on Small Arms Mechanism: CASA)が1998年に発足した。各部局・機関はそれぞれの使命に基づいて参加している。たとえば平和維持活動局(DPKO)はDDR、人道問題調整部(OCHA)は武力紛争における文民保護、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は暴力からの難民の権利保護、国連開発計画(UNDP)は開発を中心としたより大きな枠組の中における小型武器への対応、国連児童基金(UNICEF)は子ども兵士の問題、国連環境計画(UNEP)は小型武器廃棄の際の環境保護および紛争後社会における環境評価、世界保健機関(WHO)は暴力からの保護、等それぞれの観点から行動計画の履行に協力している。

CASAの枠組の下で、小型武器問題への対応に関する能力強化、現場へのミッション派遣、小型武器の回収および破壊等、既に様々なプロジェクトが実施されてきた。関係者間での情報共有についても、CASAでデータベースを作り、小型武器に関する全国連加盟国192カ国の情報やDDRの成功事例をまとめている。日本は、国連軍縮信託基金(Trust Fund for Global and Regional Disarmament Activities)の一部である小型武器基金(通称)への主な拠出国として、CASAのデータベース構築を支援している。



■5■ 日本の取組


日本政府は小型武器問題に非常に熱心に取り組んでおり、国際社会でもリーダーシップを発揮している。国連小型武器政府専門家パネルや中間会合で議長国を務めたり、コロンビアや南アフリカ共和国と共に小型武器に関する国連決議の取りまとめにあたったりしている。また、二国間援助においても、カンボジアにおいて2003年以来「カンボジアにおける平和構築と小型武器対策プログラム」を実施したり、他国においても、警察改革や教育支援、DDRの一部分としての小型武器対策に資金援助を行ったりと、積極的に取り組んでいる。また、日本政府が主な拠出国である人間の安全保障基金では、人間の安全保障を実現するための治安改善という観点から、コソボやタンザニアで小型武器対策が実施されている。

■6■ 日本政府の立場から【大村さんからのコメント】


これまで3年半ほど、国連日本政府代表部で軍縮を含めた様々な案件をみてきた。自戒の念を込めて申し上げれば、日本人の多くは軍縮の専門知識をあまり持っていない。歴史的背景もあって、「軍事はよくない」「軍縮をすべき」という感情は世界中のどの国よりも強いが、なぜそうなのかということが、教育の場で理論的に教えられてきていない。アメリカ等では大量破壊兵器問題についても、理論に基づいた議論や主張がなされている。この勉強会を契機に、軍縮問題に対する関心を深めて頂きたい。

小型武器問題については、(1)なぜ小型武器なのか、
(2)この問題の何が難しいのか、(3)国連または日本に何ができるか、
という三点を中心に考えてみたい。

まず、(1)なぜ小型武器なのか、であるが、小型武器とは基本的に昔から存在していたものである。戦後に登場した核兵器とは違って、殺傷兵器として身近なところにずっとあったものをいかに適切に管理できるかという点に、その国の統治能力が表れる。日本の戦国時代を振り返っても、安価で効率のよい武器を得た勢力が勝利を手にしている。長篠の戦で織田信長が勝ったのも火縄銃のおかげだろう。武器によって覇権を取った勢力は暴力装置を独占する必要があり、そのために過去の勢力は苦労してきた。これらの例には豊臣秀吉の刀狩、明治政府の廃刀令等がある。

国家による武器の管理ということに関して言えば、無論西南戦争のような、政府に反抗する勢力による反乱もあったものの、日本は比較的成功した方なのではないか。島国であるために他の国からの武器の流入が少なかったこと、また、明治以前から藩制度があったためにそれぞれの藩の中で統治がしっかり行われていたこと等がその理由であると思われる。

しかし、現代において同じように武器の管理を行うことはずっと困難である。一つには、数の多さが挙げられる。益子さんの講演にもあったように、世界中で10億挺ともいわれる小型武器が安価かつ容易に手に入るようになっている。紛争を終えたばかりの社会で、昔の日本がやったことと同じことをやろうとしてもそう簡単にはいかないが、その手伝いをすることはできる。紛争後社会では、核兵器よりも大量破壊兵器よりも、小型武器の存在が開発の障害となっている。だからこそ、そうして小型武器の管理を進めていくことが重要である。

次に、(2)小型武器問題の何が難しいのか、という点については、第一にこれが比較的最近議論され始めた問題だからである。小型武器はようやく1990年代後半から国際社会において問題として認識されたばかりであり、国連が本格的に取り組み始めたのも、ここ10年ほどのことである。核兵器の40年近い議論の歴史に比べれば、小型武器問題についてはまだまだ議論が深まっていない。

第二の難しさは、小型武器には合法なもの、非合法なものの両方が存在するということである。核兵器で言えば、保有国と非保有国が存在し、保有国については一応保有が認められている。一つの国の中に合法と非合法なものが混在しているというのが小型武器の特徴であり、どれが合法でどれが非合法かを識別するのは非常に難しい。

第三に、小型武器問題の多面性および複合性が挙げられる。小型武器問題は人権、開発、治安部門改革等、様々な立場にある機関が様々な角度から取り上げており、一つの切り口から考えればよいというものではない。その点では、対人地雷の問題とも似ている。

最後に、(3)国連または日本に何ができるか、ということについて考えたい。これについては、益子さんの講演にあったように、国際社会におけるルール作りと現場での支援を両輪で進めていくことが必要である。ルール作りについては、まずは会議を通じて少しずつ合意を形成し、行動計画を着実に実施していくこと。小型武器の追跡(tracing)については一通りの目処がついた状況なので、今後は非合法取引の仲介(brokering)を中心に、一歩ずつルール作りを進めていくことになるだろう。現場での支援については、平和維持活動、資金援助、NGOを通じた人的支援、小型武器をいかに効率的に破壊するか等の技術支援を行っている。

小型武器、国際社会における対立の構図が核兵器や大量破壊兵器とは若干異なっている。核兵器については、保有国対非保有国という一義的な対立が確立されているが、小型武器については、そこまで明確な対立はない。あえて言うならば、武器輸出国とそうでない国、ということだろうか。小型武器問題への対応を進める上で、武器輸出国が障害となっている面もある。

日本の観点から見れば、核兵器については、日本は被爆国である反面、日米安保条約に基づいた安全保障体制を持っているので、核廃絶を訴える際にも歯切れの悪いところがないとは言えない。他方で、小型武器については、アメリカとは違う立場を取ると割り切っている。もちろんアメリカの参加を得なければ実効性のある管理制度は作れないので、アメリカを孤立させずに国際社会の議論の場に留めるための配慮を示してきた。しかし基本的にはアメリカとの立場の違いを気にせずに日本の姿勢を打ち出すことができ、日本が活動する余地も大きい。

何ができるか、ということについては、国連総会決議が国際社会におけるルール作りの源泉となっているので、今後もこれを柱として取り組んでいくことが重要。日本は国連小型武器基金及び国連機関に対して相当な額を拠出している。国連人間の安全保障基金を通じた平和構築等、小型武器そのものではないにしても、小型武器問題と密接に関わる分野でも積極的に支援を行っている。引き続き、ルール作りと現場での支援を基本姿勢として取り組んでいきたいと考えている。

質疑応答 

■Q■ 日本では小型武器は製造されているのか。日本で製造された小型武器が海外で出回っているということはないか。 
■A■ 日本では、警察官、自衛隊等政府職員が所持するための小型武器が製造されている。ただし、武器輸出三原則に基づき、日本で製造した武器は輸出しないと閣議決定されているので、日本の政府機関でのみ使用されている。
■Q■ 現場での支援について、人間の安全保障との関連で小型武器を回収しているとのことだったが、紛争後社会の人々が抱える不安を解消するための包括的な枠組と提携して行われているのか?たとえば、コソボではUNDPが中心となって小型武器を回収したが、住民の間に治安への不安があったため、皆自分の身を守るために武器を手放したがらなかった。紛争直後の、暴力の収まっていない社会で小型武器を回収することは難しいのではないか。
■A■ コミュニティの安全があって初めて小型武器の回収が成功する。安全が確立されるタイミングを見計らって回収を行う必要もあるし、その前段階においても、学校等の教育機関と協力したり、警察と住民との対話の機会を設けて住民の不安を取り除いたり等、小型武器回収と併せて啓発活動を実施することが必要。これまでに実施されたプロジェクトでは、まずコミュニティの安全性を調査し、回収に機が熟しているかどうかを判断した上で、熟していなければ、回収できるような状況に向けて働きかけを行っている。
■Q■ 様々な部局や機関が小型武器問題に携わっている中で、国連軍縮部はどのような役割を担っているのか。
■A■ 小型武器問題は様々な分野に関係してくるため、国連の機関間枠組、DDRに関する機関間の活動にも積極的に参加している。軍縮部は平和と安全保障に関する問題のうち、政治的な部分に対するアドバイスを行うのが主な役割である。実際の活動については、軍縮部の地域センターやUNDP、CASAの他のメンバー、国際NGO等が行っている。
■Q■ 非合法なものであるにもかかわらず、小型武器問題を国連という場で話し合うこと自体に反対する国があるとのことだが、こうした主張はどのような理屈に基づいて行われているのか。また、実際に小型武器問題に携わっている立場からは、このような主張はどう思われるか。
■A■ こうした国の場合、まず理屈があるのではなく、合法・非合法を問わず、とにかく銃の規制や管理について話し合われることが我慢ならないというアレルギー反応に近いものが国民の間にあり、それを逆手に利用してロビー団体が反対活動を行っているというのが実情ではないか。こうしたロビー団体はその国の政権と密接に繋がっていることもあるので、政権としても無視できない存在となっている。2001年の初めから、国連の立場としては、小型武器問題を議論する際にはこれらのロビー団体を会議に招待し発言も行ってもらって、政治的な客観性を確保しようと努めている。実際に国連でこうした国が発言する場合には、はっきりと「非合法な小型武器についても議論したくない」と明言しているわけではない。ただ、小型武器はどれが合法でどれが非合法かを判別するのが難しく、コインの表裏のようなもの。国連が進めている枠組作りはそれをできる限り管理しようとし、その一環として、小型武器一挺一挺に刻印を押すこと等が試みられている。しかし、たとえば刻印を押すとなると生産者にとっては相当のコストがかかるので、小型武器問題に限ったことではなく、とにかく新たな面倒は背負いたくない、という気質があるのではないか。もっとも、公の場でそう主張することはできないので、自国の憲法等を持ち出して理屈を後づけしているようにみえる。
■Q■ 武器輸出国は安保理常任理事国の中にもいくつかあるが、それぞれどのような立場を取っているのか。
■A■ 武器輸出国が皆足並みを揃えて同じ主張を行っているわけでもなければ、武器輸出国だから小型武器の管理に必ず反対するというわけでもない。武器輸出を行っているにもかかわらず、武器貿易条約の推進役となっている国もある。また、一元的な対立軸の中に入らず、独自の立場を守っている国もある。他方で、現時点では特定の輸出国が目立って反対しているので、他の輸出国はそこまで前面に出て反対する必要もないという見方もできる。仮に、今後輸出国に対する拘束が強まれば、他の輸出国も強硬な反対論を唱え始める可能性もある。
■Q■ 過去17年間で廃棄された小型武器と同じだけの小型武器が年間に新しく生産されているとのことだが、それだけのコストをかけてまで小型武器を廃棄する意義は何か。
■A■ 1997年にはアルバニアの武器庫から50万挺の銃が盗まれるという事件が起きた。小型武器の廃棄には確かにコストがかかるが、廃棄せず保管しようとすればもっとコストがかかるだけでなく、それが非合法に蔓延する危険性もある。そのため、たとえコストがかかろうとも、再利用が不可能なように廃棄を進めていくというのが小型武器処理の本流となっている。
■Q■ 日本は小型武器を輸出しているわけでもないのに、なぜ日本がこの問題に取り組まなくてはいけないのか。小型武器が蔓延しているアフリカの旧宗主国等が中心となるべきではないか。
■A■ 小型武器によって影響を受ける国は多い。日本がこれまで積極的に支援してきた発展途上国の開発においても、小型武器問題が根幹にある。他方で、大量破壊兵器問題への対応がなかなか進捗しない中で、小型武器は今後議論や取組を深める余地が大いにある。
■講師からのコメント■
小型武器に関する包括的メカニズムが存在しない中で、今の勢いを失わずに今後も取組を進めていくためには、機関や組織の枠を超えた議論の場を強化することが必要。人間の安全保障、DDR、開発等、大きな概念の中に一つの要素として組み込まれて履行されていくことで、小型武器問題の主流化を進めていくことが重要だと考えている。
議事録担当:大槻

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小型武器東京ワークショップ:
「平和なコミュニティの保護・育成の観点からの小型武器問題」

議長サマリー


 2007年3月12日及び13日、小型武器東京ワークショップ「平和なコミュニティの保護・育成の観点からの小型武器問題」が日本政府の招待により開催された。18カ国の政府より26名の代表と、様々な機関及び研究所より29名の代表が出席した。

 同ワークショップの目的は、参加者がこれまでに小型武器問題への取り組みにおいて蓄積してきたベスト・プラクティスの経験や専門的知識を共有し、需要ファクターについての理解を深め、平和なコミュニティを保護・育成する観点からの移譲管理について意見交換を行うことであった。

 これらの目的が達成され、同ワークショップは非常に時宜にかなった有意義なものであった。参加者の多くは、非合法小型武器問題への取り組みにおけるモメンタムを維持し、行動計画を履行するために、あらゆるレベルで積極的なイニシアティブをとる必要性につき繰り返し言及した。全ての基調プレゼンテーションは貴重かつ有意義であり、続けて行われた意見交換は示唆に富み実り多いものであった。以下は、ワークショップの概要の要約と、セッションにおいて議論・提起された多くの重要なポイントの抜粋である。美根慶樹アフガニスタン支援調整・NGO担当大使、前軍縮代表部大使が、全てのセッションにおいて議長を務めた。

 開会セッションでは、松島みどり外務大臣政務官、伊藤信太郎衆議院議員・前外務大臣政務官、猪口邦子衆議院議員・前内閣府特命担当大臣(少子化・男女共同参画)、ファティマ・ナグデ・ハジャイジ南ア議会外交委員長、石栗勉国連アジア太平洋平和軍縮センター所長、中根猛外務省軍縮不拡散・科学部長が挨拶の言葉を述べた。

 第二セッションは「需要ファクターの分析と対応・コミュニティの視点から」と題し、ミヒャエル・ハーゼナウ独外務省地雷・小型武器等軍備管理部次長、ロバート・ムガー「スモール・アームズ・サーベイ」上級研究員、オーウェン・グリーン英ブラッドフォード大学教授が基調プレゼンテーションを行った。

 第三セッションは「ベスト・プラクティス・現地の需要ファクターを念頭に置いた成功例」と題し、デイヴィット・ムシラ・ケニア議会副議長、サリム・サリム・ケニア外務省国際会議課次長、木田泰光・日本小型武器対策支援チーム(JSAC)プロジェクト・マネージャー、クム・ジーデート・カンボジア国家警察中央公安局長付補佐官、マーク・アントワーヌ・モレルUNDP・BCPR小型武器地雷行動ユニット職員、伊勢崎賢治東京外国語大学教授が基調プレゼンテーションを行った。

 第四セッションは「移譲管理・コミュニティ保護の視点から」と題し、アラステア・トッティ英外務省国際安全保障・通常兵器管理課長、ホルヘ・エンリケ・ヴァレリオ・エルナンデス在京コスタリカ大使館臨時代理大使、夏木碧「オックスファム・ジャパン」ポリシー・オフィサー、パトリック・アンソニー・マッカーシー「ジュネーブ・フォーラム」コーディネーターが基調プレゼンテーションを行った。

 第五セッションは「国連における小型武器問題への取り組みとその問題点、今後の方向性」と題し、堂之脇光朗日本紛争予防センター理事長、益子崇国連軍縮局プロジェクト・コーディネーター、ベルナルド・マリアー二「セーファー・ワールド」アドバイザー、オニー・ヤリンク在京オランダ大使館一等書記官、イフティカル・フセイン・シャー在京パキスタン大使館公使が基調プレゼンテーションを行った。

 開会セッションの後のいずれのセッションにおいても、基調プレゼンテーションに引き続き意見交換が行われた。

需要ファクター
 参加者は、小型武器に対する需要を削減するための分析、目標及び方途について議論を行った。紛争の解決は、小型武器問題を含むコミュニティの平和プロセスにとって最大の鍵である。需要ファクターのような複雑な問題は、コミュニティや国に特有の物証に基づき、背景を考慮に入れながら注意深く解決されなければならないため、分析の重要性を強調し過ぎることはない。例えば、買い戻しプロジェクトはある国では効果的であっても、他の国ではそうではない。コミュニティに特有の状況や政治的意思によって、結果が左右される。このような分析が、適切な目的や政策へとつながっていくのである。

 ワークショップでは、コミュニティ特有の重要な需要ファクターの要素がいくつか指摘された。国境の両側のコミュニティの状況、都会/田舎の違い、ジェンダーの側面、銃文化の有無、その歴史などである。供給と需要のバランスは保たれなければならない。さもなければ、余剰武器が非合法武器に転じたり、潜在的使用者がコミュニティの外の供給者と連絡をとるかもしれない。

 コミュニティには多くの主体が存在し、各自がそれぞれ供給及び需要の要素を備えているため、小型武器への需要ファクターを削減するためには包括的なアプローチが必要である。需要ファクターは、それぞれの地域、段階、局面及び各主体に応じて分析される必要があり、その後に政策や措置が統合された方法で決定されなければならない。しかしながら、これまで規範作りの努力においては、より供給サイドに焦点が当てられてきたことから、需要ファクターには注意が払われなければならない。

 需要ファクターを削減するためのいくつかの具体的な方法についても議論が行われた。県、区域、共同体レベルにおける教育やワークショップの開催は、信頼醸成措置として有効であり、また、コミュニティの構成員とセキュリティ分野に携わる職員が出席して互いにコミュニケーションをとることは、そのような信頼醸成のために有益であるとともに、武器に対する需要を削減することにも役立つ。コミュニティの構成員が武器の廃棄を目の当たりにする武器破壊式典や、銃全廃宣言は、コミュニティの信頼醸成に大きく貢献する可能性を備えている。

 行動計画は非合法な小型武器のみを扱っているが、合法な小型武器の有するいくつかの要素について考察を行うことも重要である。なぜならば、需要ファクターは多くの要素を含んでおり、それぞれの要素は、合法な小型武器の非合法ルートへの逸脱も含めて徹底的に調査されなければならないからである。

 政府の政治的意思は、国民の和解や小型武器問題への需要サイドからの取り組みにとって鍵となる要因である。それらは、紛争の解決とDDR(注:Disarmament, Demobilization and Reintegration of Ex-Combatants, 元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰)を含むその後の順調なプロセスに影響を及ぼす。政府によって、非合法小型武器を禁ずる国内法が制定されることは、ある国においては武器回収の基盤をなすものである。政治家の役割と、NGOを含めたコミュニティの構成員とのコミュニケーションは、政治的意思が現場に強い基盤をもつことになるが故に見逃されてはならない。

 小型武器問題に取り組む政治的意思を確固と持ちながら、小型武器プロジェクトを実行するための具体的措置や資金を必要としている国もある。この関連で苦しむ国々に対し、支援を行うことの必要性について触れた参加者もあった。人間の安全保障の重要性の拡大に言及しつつ、参加者は、OECDガイドラインや、2006年6月に提出された武装暴力と開発についてのジュネーブ宣言にも注意を払いながら、小型武器プログラムを国家開発プログラムに盛り込むことの必要性を確認した。

 人々は、自分や家族を保護するために小型武器を所持することもある。自分たちのコミュニティが安全だと感じられない場合、人々は武器を入手する可能性がある。安心感は、地域コミュニティや国における治安警察の日常の実践に影響される。この関連で、治安部門改革(SSR)は武器に対する需要を削減する上で重要な役割を演じうる。SSRは、貯蔵管理及び役人の汚職防止等の実際的な問題でも重要である。DDRプロセスはそれ自体で成立することはないため、SSRはDDRプロセスに組み入れられなければならない。SSRに支えられた法制度の改善(または法へのアクセス)は、ある状況では、需要削減に必要な前提条件となりうる。

 あるコミュニティでは、人々は安全上の理由から依然武器を所持しているものの、平和の文化がコミュニティに普及している場合には必ずしも紛争を引き起こすことにはならない。それゆえ、武器回収は唯一の解決ではなく、背景やコミュニティの雰囲気といった特有の条件に依存する。武器の相対的価値についても考察が行われなければならない。

移譲管理
 今次会合は、国連小型武器行動計画を国際レベルで履行する更なる行動の一例である。移譲管理についての理解を促進させるためカナダの主催で8月にジュネーブで行われる会合もまた、2007年国連総会第一委員会で議論がなされる予定の2008年隔年会合に向けた更なる一歩を踏み出す上で有益である。

 移譲管理に関し、不安定なコミュニティに影響力を及ぼす移譲は、近隣諸国からなされることもある。参加者は、紛争地域に移転される懸念となる武器の多くは中古品であり、保管庫から放出されたり、規制が不十分な製造者によって製造されたものであることが多いことを指摘した。さらに、誰がそのような地域に武器を持ち込むのか、それらの武器への資金源は何かについても疑問が提示された。

 参加者から、全世界に98の武器製造国が存在すること、また、多くの場合、輸出者は製造者ではなく、輸出者の多くは同時に輸入者であるとの統計が示された。

 需要ファクターと移譲管理は互いに密接な関係にある。需要ファクターについての議論でも言及されたように、小型武器の移譲の連鎖の中で武器が最終使用者に到達するまで、各々の主体はそれぞれの需要と供給を有している。小型武器の移譲がいかに良く規制されていても、需要がある限り、非合法な手段を通じてでもそれは達成される。したがって、供給サイドの観点からも包括的なアプローチが重要である。コミュニティ保護の観点からは、武器製造に限度を設けるとの議論もある。国際協力によって、さらに厳しい規制が行われなければならない。全ての国が防衛及び安全上の必要から武器を保持する権利を有することを考慮すると、責任ある移譲が行われなければならず、国際的な管理が必要である。小型武器は一度コミュニティに出現すれば、暴力をより激化させ、紛争をさらに長期化させるのである。

 武器貿易条約(ATT)に関しては、国際社会がその進展に向けて一致して取り組むことが必要である。ワークショップでは、同条約は、武器取引を阻止するものではないが、明確な基準を与え、移譲が承認されない場合について合意に至るものであるとの意見が表明された。また、ATTは小型武器行動計画の移譲管理の局面をより拡大して履行するものであるとの意見も出された。ATTが完全に有効なものとなるためには、国際法の下での国家の既存の義務を完全に成文化することが必要である。

 ワークショップの参加者は、事務総長が加盟国の見解を聴取し、第62回総会に報告書を提出することについての国連総会決議A/RES/61/89「武器貿易条約に向けて:通常兵器の輸入、輸出及び移譲のための国際基準の設置について」で言及のあるプロセスを確認した。この点につき、各国がATTの実行可能性、展望及び要素についての見解を2007年4月30日までに事務総長に提出しなければならないことが喚起された。右は、国連軍縮局からの2007年1月付け口上書で設けられた期限である。政府専門家会合(GGE)は本件を検討し、第63回総会に報告書を提出する。

 参加者は、ATTの重要性を強調し、条約に含まれるべき要素について有意義な意見交換を行った。加盟国がこのプロセスに積極的に参加することが推奨される。ワークショップでは、ATTに含まれるべきポイントはGGEでの議論に委ねられることが確認された。しかしながら、GGEは右に述べられた事実に考慮を払わなければならない。

国連小型武器行動計画の履行における進捗と課題
 2006年の履行検討会議が、国際レベルでの更なる取り組みについて合意することに不成功に終わったにも関わらず、国連小型武器行動計画は、履行検討会議の議長が述べたように、小型武器の非合法取引に取り組むための最も重要な国際的枠組みである。

 地域枠組みについての取り組みが始まったばかりのアジアを除き、移譲管理を含む十分な地域的な枠組みが存在するところ、参加者は、これらの地域的な取り組みを整理する全体的な取り組みがなければならないことを実感した。この分野では国連が重要な役割を演じることができる。

 参加者は、行動計画は引き続き然るべき地位にとどまり、小型武器についての基本的な国際的合意であることを強調した。行動計画の履行は、国家レベル、地域レベル、国際レベルでさらに強化されなければならない。ワークショップの参加者は、行動計画の採択後、国連へ提出された多くの国別報告書や国際トレーシング文書の採択、現在進行中のブローカリング政府専門家会合のプロセス、昨年の国連総会におけるATT決議及び弾薬決議の採択等、加盟国によって達成された多くの成果についても認識した。

 需要ファクター及び移譲管理についての議論を通し、供給サイドと需要サイドは国際レベルにおいても、また地域、国家、コミュニティのレベルにおいても互いに密接に関連している。さらに、小型武器問題が複雑な問題であることは自明であり、加盟国が小型武器問題を解決するために交渉し、共通の見解に到達する必要がある課題は様々である。小型武器問題は包括的なアプローチを必要とするため、国連のような常設のフォーラムが長期的かつ継続的なプロセスに適している。

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あんびるコソボ見聞録へ
~3月4日から10日までユーゴスラビアのコソボ自治州をたずねました~
大学からの親友・益子崇氏がUNOPSという国連関係機関の職員として現地で2年半働いていて、正月に彼と電話で話した折に興味を持ち、「危険なんか無い。」ということで無理やり休みを取り、パソコン購入資金を突っ込んで出かけました。

完全プライベート旅行ですが、見たもの、聞いたことを少しでも伝えたいと思い写真の一部を載せました。また、現地で奮闘する日本人国連機関職員やボランティア、知り合えたコソボのアルバニア人、セルビア人の声は、4月6日スタートする土曜朝の新番組『サタモニフリーウエイ』でお伝えします。

少々ややこしい話もありますがおつきあいください。


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国際会議に出席する(3)
2009-02-25 | Weblogさて、この「評価支援委員会」で何を決めたのかを、対外発表文を作って公表することになっている。その文章に何をどう書き込むか、これが長時間の議論になる。どこの国際会議でもそうだ。あたかも、何を議論したかよりは、何を議論したと発表するかのほうが、大事なようである。皆、真剣になって議論する。

チョイ代表は、「本年10月を目処に、選挙日程を考えていく」と書き込むことを提案した。コートジボワールの大統領府も、ソロ首相も、「新勢力」の代表も、この提案に反対しない。コートジボワールのどの政治指導者たちも、大統領選挙を早期に行うことに抵抗感を持っているというふうには、人々から思われたくない。だから、誰も反対しない。

そこで慌てたのは、マンベ選挙管理委員長だ。10月までに選挙を行うということが、当然のように思われては、選挙実施の責任者として責任が重い。確かに、自分は報告の中で、10月が一つの目処として可能だとは言いましたよ。言いましたけど、とマンベ委員長が抗弁する。
「それは、あくまでも非公式な見通しとしてです、正式には、身分認定作業の終了と、その後の係争案件処理を見届ける必要があります。10月までに選挙を行うなどということを、とてもこの場で約束できない。」

議長のコンパオレ大統領は、10月という期日は明記できないとしても、「2009年中に大統領選挙を行う」くらいは、この会合の決定として言えないのか、と提案する。そうしたら、今度はチョイ代表が、ニューヨークの安全保障理事会では、「2009年の春までに」と言っていたくらいだ、年末までだらだら延期することを容認するような言い方は、とても認められない、と言う。議論が紛糾する。コンパオレ大統領は、議事を休会にしては、意見を異にする出席者の間を調整する。

結局、フランス大使が見るに見かねて言い出した。誰もが、ちゃんとした選挙の日程を示すべきだ、と思ってはいるが、誰もがそれを言い出す責任を取りたくないのだろう。それならば、われわれが「決めた」と書かなければいいのだ。つまり、こう書けばいい。「選挙管理委員会が、2009年内の出来るだけ早い時期に選挙を行うとの日程を公表することについて、評価支援委員会として留意した。」

それで一件落着した。何を言っているのか、ちんぷんかんぷんの表現で、この会議場の外にいる人々が読んでも困るだろう。しかし、これであれば「2009年内」という文字が入るし、この表現でしか皆が納得できなかったのだ。こういうことはよくある。国際会議などを研究していて、対外発表文を読んでいて非常に読み取りにくい文章に出くわしたときは、自分の英語能力を疑ってはいけない。むしろ、わざわざ回りくどい表現になっている、何らかの背景事情を読み取らなければならない。

コンパオレ大統領は、それ以外のいくつかの点について、自分でも文案を提案しながら、てきぱきと意見をまとめていく。たいした議長采配だ。対外発表文が纏まったところで、コンパオレ大統領が締めくくりの言葉を述べ、その中で私の発言に言及してくれる。
「日本大使から、経済発展への悪影響や、国民の不満鬱積から治安悪化につながる可能性への指摘があった。この点は、私としても、特に重要な点であると考える。」
初出場の私を、特に配慮しての言及だろうか。いやはや、心憎いまでの議長ぶりである。大統領にしておくのは勿体ない。

いずれにしても、選挙日程の件で議論が紛糾したおかげで、資金援助の件は出なくてすんだ。私の演説原稿は、投票箱の部分が無駄になったけれど、世の中には無駄になるに越したことはないというものもある。大統領や首相と一緒に、一日中会議室に缶詰になって行った議論に、どういう意義があるのかは定かではない。これで何かが動きはじめるというわけでもない。でも、ともかくも面倒な宿題が出ないですんだ。それで皆が安堵して、外に出たときにはもう夕闇になっていた。


この会議の結果が安保理に報告されるのですね (TAK)
2009-02-26 08:26:36
岡村大兄、ごぶさたしております。

ニューヨークの国連軍縮部で小型武器関連の担当をしています益子です。コートジボワール日誌、いつも興味深く読ませていただいています。関連した話題がありましたら、時々ニューヨークからレポートさせてください。

特に今回の評価支援委員会に出席されたお話は、国連の記事に出てくる“現地の有名人"総出演で外交舞台の迫力がみなぎっています。次の投票日が決定されないまま延期され選挙日程も出てこなかったのですから安保理が業を煮やすのも無理ないのでしょう。Choi特別代表もお疲れのことと思います。彼は軍縮問題を議論する国連総会第一委員会の議長も務めた方なので、軍縮についても権威でいらっしゃいますね。ちなみに安保理でのコ国の審議は先月終わったばかりですが、今月は返り咲いた日本が早速安保理の議長国を務めています。

去年の九月から国連が配信したコートジボワール関連の記事のリンクを貼り付けました。
見出しを追っかけるだけで、流れの雰囲気が推察できます。9月までは選挙に向けて期待がたかまり”Confident" から10月頃には”threat"”painfully slow" などのネガティヴな見通しへと変わってきて選挙予定日(目標日)の11月30日の日付には触れられなくなります。有権者登録は2百万、3百万、4百万と順調に推移しているようです。しかし、日程上の進展があるまではもう選挙の話には触れられないのか、最新の記事はプロジェクトのものです。それはそれでおもしろいですが。UNOCIの延長決定とダイヤモンドと武器の禁輸措置を含む制裁延長の記事もありました。

益々お元気でご活躍ください。


国連軍縮部プロジェクト調整官 益子 崇

Côte d’Ivoire: top UN envoy to tour 1000 micro-projects for peace - 24 February 2009
http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=30006&Cr=voire&Cr1=

Security Council urges Ivorian parties to devise ‘realistic’ plan for delayed polls - 27 January 2009
http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=29691&Cr=voire&Cr1=

SECURITY COUNCIL EXTENDS MANDATES OF UN CÔTE D’IVOIRE OPERATION, FRENCH SUPPORTING FORCES UNTIL 31 JULY, UNANIMOUSLY ADOPTING RESOLUTION 1865 (2009) - 27 January 2009
http://www.un.org/News/Press/docs/2009/sc9584.doc.htm

そもそも、「コソボって何処?何?」というところから。

コソボ自治州は新ユーゴ・セルビア共和国に属し、面積は岐阜県とほぼ同じのひし形の地域、人口は名古屋市並の約200万人、州都は人口20~30万人の街プリシュティナ。
コソボの住民の約90%がア ルバニア人(ゆるやかなイスラム教徒)、10%弱がセルビア人(セルビア正教徒)、残り数%がロマ等の少数民族です。

もともと旧ユーゴは7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家といわれる(ホントはもっと複雑)ほどのモザイク国家でした。対ナチス・パルチザンの英雄チトー大統領が存命中はソ連の衛星国にならない社会主義国・非同盟諸国の代表として発展してきました。

ところが、80年大カリスマ死去後、タガはゆるみ民族主義が台頭し、国はバラバラになっていきます。結局いくつかの内戦を経てスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアが分離独立し、92年セルビアとモンテネグロの2国だけの今のいわゆる新ユーゴになりました(このユ ーゴ連邦という呼び方もなくなるというニュースが3月15日にありました)。

こういった旧ユーゴからの独立が相次ぐ流れのなかで、アルバニア人が大多数を占めるコソボも独立を目指します。というのは、セルビア人が社会の要職を占めていた上に、ミロシェビッチ前大統領に自治権を剥奪され、州議会を力ずくで解散させられたりしたからです。

当然、セルビア・ミロシェビッチ側はセルビア人治安部隊、連邦軍を使ってこれを弾圧します。セルビア人にとってコソボは中世セルビア王国の中心地(日本で言うと京都・奈良)であり、オスマントルコ帝国との歴史上有名な激戦地であるなど、いわば聖地であるという心情的なものがあります。ただ、ミロシェビッチがこういった事を利用して人々をあ おったといわれています。

アルバニア人側は当初、コソボのガンジーこと作家のルゴバ氏がとった非暴力路線が上手くいかず、 若者を中心に支持を集めたKLA(コソボ解放軍)がゲリラ戦で対抗します。何年か戦争が続き、セルビア側の行為が人権侵害だとしてNATOが介入し、ついに99年3月から6月までコソボを含む新ユーゴに空爆という力ずくの手段にでました。


【NATOに空爆された旧ユーゴ政府のビル】

その結果、セルビア人部隊・連邦軍がコソボから撤退、NATO軍からなるKFOR(コソボ平和維持部隊)が駐屯し、UNMIK(国連コソボ暫定統治機構)が政府の代わりに管理しています。

もちろん、コソボ州議会もあり3月4日、自治州初代大統領にルゴバ氏が選ばれました。 とはいえ、今のコソボは独立国でもなく、新ユーゴ・セルビアの一部ではあるがUNMIKやKFOR 等の国際機関が治めているという、とてもわかりにくく宙ぶらりんな状態なのです。

この戦争、NATO空爆を通じて数千から数万人が亡くなり(正確な数字は不明)、約80万人が難民として周辺国に避難していました。

アルバニア人難民は殆ど帰還し復興しつつあります。これまでの経緯は大昔から続くもっと複雑なものなので、できるだけ単純化しました。

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さて、前置きが長くなりました。ここから私が体験したコソボです。
血が通う優しい人たち、民族紛争の傷跡、ごく一部ですがご覧下さい。

 【コソボ検問所】
ウィーン経由でマケドニアの首都スコピエへ。空港からタクシーで国境まで山道を1時間、マケドニアを出国して200m歩きコソボ入国(入州)。
行きは2日、帰りは3日がかり。UNMIK(国連コソボ暫定統治機構)が管理。この時の係員は2人のカメルーン人、兵士や装甲車のある風景とは正反対のファンキーさ。
ここから友人の待つプリシュティナまで、さらにタクシーで山道を1時間。すぐにタクシーの客引きの子どもたち6,7人に取り囲まれた。一生懸命にふっかけてくる、頑張って生きている。

【州都プリシュティナ遠景、想像より都会】sf

大通りは片側2,3車線の舗装道。しかし、一歩横道に入ると未舗装だったり、大穴があいていたりする。それほどひどく破壊された印象はない。
中央の体育館は空爆ではなく、戦後に放火された。この付近に大きな市場がある。
市場で苗木を買う奥様方】

生花はほとんど見かけなかったかわりに、やたらと造花屋が多かった。それも大ぶりで、ド派手なもの。
隣の大駐車場では数十台のトレーラーが野菜、果物を満載して商売してい た。○ディダス、ナ○キのコピー品も発見。


体育館そばのスーパーマーケット】sf
コソボで一番大きいらしい。これほどではないが、住宅地にも個人営業のよろず屋があってビール、ワインから食品、洗剤まで大体の物はそろう。
ただしそれは都市部でのことであって、田舎との格差は相当あった。PC/コソボプロテクションコープ】

昼下がり、延々と続く兵士たちのパレードと出くわす。自衛隊の前身、警察予備隊のようなものか。沿道の市民からの拍手をうけていた。何があるのかと、群衆と一緒に追いかけていくと・・・。

【創始者アデミ・ヤシャーリ没後4年のイベント】sf

中心部のスタジアムは超満員、勇壮なマーチ、次々と演説するVIPらしき面々。大声援、割れんばか りの拍手、セレモニー終了後、ど演歌ノリの歌手たちが次々に登場。アトラクションがはじまった。
実はこのイベント、KLA(コソボ解放軍・ゲリラ組織で今は解散)の創始者アデミ・ヤシャーリの没後の4年イベントで、その夜のTVニュースでも報道されていた。

 【アデミ・ヤシャーリの肖像画】
スケンデライという小さく貧しい村が彼の出身地であり、KLA発祥の地。
それゆえセルビア部隊に激しく攻撃された。

保存された廃屋】sf

そのアデミ・ヤシャーリが数十人の一族郎党とともにセルビア部隊に抵抗し、壮絶な最後を迎えた家。
当時のまま保存され、党派を超えた英雄を偲んで多くの人が訪れている。ほとんど蜂の巣。銃弾の痕がなまなましい。

 【血痕】

白いパラボラアンテナには血しぶきの痕。別の白い壁にもついていた。

 【アデミ・ヤシャーリ一族の集団墓地】sf

豪華な造花で飾られている。
このなかには、小さな子どもや女性も含まれている。墓地の横に舞台があって、この前の晩まで3日間連続でイベントが行われていた。
コ ソボにはこうした集団墓地や死者の肖像が刻まれた鎮魂碑がいたるところにある。こうべを垂れ、合掌。

 【「コソボの京都」プリズレン】

モスクとセルビア正教会の両方がある。東西の文化が交錯していることを実感する。
セルビア教会はトラブルを避けるため、KFORに守られている。しかし、コソボで初めて観光地気分になりウキウキできた。

【ウェディング通り(?)】sf

不思議なことにプリズレンにはこんなウエディングドレス、カーテン、宝石の店が1キロ以上もズラー ッと軒を連ねている通りがある。花嫁支度はプリズレンで…。

  【???】
な、なんとセクシー下着ショップだ。プリズレン、プリシュティナといった都会ではよく見かけた。
緩やかとはいえイスラム教徒、女性の貞操観念はしっかりしているらしいが、結婚したら燃えるということなのか?巨乳美人が多いだけに気になって仕方がないのだぁぁぁぁぁぁぁっ。


【ラホバッツにて】sf
元気な小学生たち。
この後増殖して、十数人の子どもたちと世界地図を書いて筆談。アルバニア人は多産で若年人口が多く、学校は3交代制。

【カフェでダベる若者】
とにかくアルバニア人は人なつっこい上に、東洋人が珍しいとあって道の反対側からでも声をかけてくる。英語習いたての子どもは「ハロー」。そうじゃなければ、「ジャッキーチェン、 ブルース・リー」と声が掛かる。違うってばぁ。
とにかくどれだけ挨拶したか数え切れなかった。何だか有名人になった気分だった。
「こんにちは」は「ミルディータ」。大声であいさつを交わすっていいなぁ。

【境界線】sf

ラホバッツには辛い場所もある。
アルバニア人地区とセルビア人地区の境界。破壊されたままのセルビア人の家。
コソボからセルビア部隊・ユーゴ軍が撤退した後、今まで虐げられていたアルバニア人がセルビア人に復讐・報復の矛先をむけた。手榴弾や爆弾も使われた。


 【緩やかな坂道】
ここから下がアルバニア人地区、上はセルビア人地区。案内してくれたUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のふるかわあつこ氏によると、前年夏まで事件が頻発し、通りは鉄条網でおおわれ、KFORが常駐していた。
今は両民族の若者たちによってこの通りをきれいにするボランティア活動が動き出したり、消防車が両地区に渡って活動するなど少しずつではあるが、良くなっているそうだ。
もともとは隣人同士。しかし胸が痛い。

【ベリカフォチャ村】sf

ラホバッツから車で10分ほど奥にセルビア人700人、ロマ15人が住むベリカフォチャ村。20歳前後の若者たち。
彼らセルビア人は、ラホバッツには出ていけない。もし行ったら、アルバニア人たちに報復としてリンチされる可能性もある。村の入口はドイツ軍が厳重にガードしている。仕事もない、高等教育は北部のミトロビッツァ市やセルビア本国で受けるしかないそうだ。


 【国連バス】
移動の自由がないセルビア人たちが移動する時は、この国連バスに乗る。前後にKFORが護衛につく。


【夕陽を浴びるグラチャニッツァ大聖堂】sf
1万人のセルビア人が住む街グラチャニッツァの名所。
撮影禁止の内部、壁画・装飾の神秘的な美しさにしばし立ち尽くす。
警備を担当するスウェーデン軍が本国から呼んだプレスに取材を受けた。JOSFあんびる、スウェーデンマスコミに登場か?


 【ミトロビッツァ市の親子】
川をはさんで北はセルビア人地区、南はアルバニア人地区に分断されているミトロビッツァ市のセルビア人高校生ミレナ・パビセビッチさんと母イェリサベタさんそしてパパ。
彼女は01年9月、元国連ボランティア(現ベオグラード大学院生)辰巳知行氏の企画で来日した。将来は日本語やコンピュータを勉強したいとのこと。日本ではカラオケにはまって、U2やスティングを歌ったそうだ。イェリサベタ さんから手編みの靴下をいただいた。物静かな、素敵なお母さんだった。


【お世話になりました】

この旅のあいだお世話になったアルバニア人家族、
クラスニッチ家の皆さん。この家の2階に親友益子崇氏が下宿している。
夫ナセル氏はエンジニアのかたわら、妻セブディアさんと
サンドイッチ屋を経営。店内にコソボ初のプリクラ導入をもくろんでいる。

7年間イタリアで働いていたので、
イタリア軍の通訳をしたほど伊語はペラペラ。
その他バルカン地域の言葉に通じ、英語もそこそこいけている。

セブディアさんのマカロニ料理、アルバニア風リゾットはうまかった。
やんちゃでかわいい子どもたちともデジモンカードや
携帯の着メロで一緒に楽しんだ。チャイを飲み、
TVを見ながら過ごした夜のだんらんは忘れられない。

別れの日、私の2人の子どもにと服をくれた。
その時、あふれ出る思いを押さえ切れなかった。
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最後まで見て頂いてありがとうございます。
これでも私が見聞きしたことの、ごくごく一部なんです。
なにしろコソボの情報なんて日本ではあまり報道されないので、未だにドンパチやってるイメージがありますが、今はそうではないことをわかって頂けたかと思います。

経済的な違いはあれど、私と同じように働き、食べ、しゃべり、学び、子どもを育て、毎日を生きている人間がいる。あたりまえと言えば、当たり前のことを感じました。
同時に、民族の違いで憎み合い殺し合った果てのがれきの山、数え切れない墓を見てどうしようもない胸の痛み、やりきれなさを味わいました。

通りすがりの旅人の甘ったるい感傷かもしれませんが、せめて私が出会った人たちが平和に暮らして欲しいと願っています。

3月4日自治州初代大統領にルゴバ氏が選ばれましたが、UNMIKはコソボ完全独立はこの地域を不安定にさせるため反対しているし、当然セルビア・ユーゴ側も認めるわけがない。
このまま国連が管理し、外国の軍隊に守られたままの状態が続くのか?02年3月末時点で、誰にもわかりません。

しかし、いつかこの土地に関する明るいニュースをスタジオからお伝えできることを夢見ています。

■この旅でお世話になった皆さん■
[UNOPS益子崇氏・山名俊之氏・UNHCR白戸純氏・ふるかわあつこ氏・UNMIK久保拓人氏・AMDA井下俊氏・浜田ゆうこ氏・松村豪氏・クラスニッチ家の皆さん・パビセビッチ家の皆さん・ドイツ軍・コソボ警察・そして身振り手振りで道を教えてくれたり、トイレを貸してくれたり、トラブルにあいパニック寸前の時ミネラルウォーターを差し入れて落ち着かせてくれた通りすがりの皆さん]
 
ほんの一部ですが私が撮った写真でした。27年前とは随分様変わりしていてびっくりでした。
食べ物は何から何までおいしかったなぁ。

印象的なのがロケ地ではしゃぐ女性の姿。年齢問わず、かわいらしいなって感じでした。

参加していただいた大勢のリスナーの皆さん、現地スタッフの皆さん、ありがとうございました。


コソボの「ベシアナちゃんを助ける会」趣意書

趣 旨  外争でははいあつりのま時せ代んにでもし、た罪。のちなょいう子ど供たちに悲劇をもたらします。民族対立の戦火に巻き込まれたコソボも、
1998年の3月25てムス焼きリュ尽くウさ家のれま家し屋たも。、ス砲ケ撃ンをデ受ラけイ炎市上(しアまルしバたニ。アい日語つの:もセこのルとよビでうアすに語。コでソはボセ中ル部ビのッ村ツ々アも市、)セブルロビヤア村軍ににあよっった2階で寝ていたベシアナちゃん(1996年6月26日生まれ。当時1歳9ヶ月)は、燃え上がるベットに横たわったままm歩泣いていました。父親は火の海に飛び込み、びロしイ込まみド、し状命たの懸が火け、傷で現の彼在痕女のがをコ広救ソがヶ出ボり月し、で)右まはは頭し、、部た彼燃のが女え毛、の上ベ髪整がシを形るア失治ベナい療ッち、はド右ゃ不に耳ん可横もは能た半大だわ分火とっ以傷いた上をうま形負こをいと泣失まがいっしわててたかいし。りま彼ままし女いしたのまた。頭し。父部た親・。は顔両火面親の右が海に手にはを飛ケ尽この幼い少女の受けた傷を、何とか日本で直してあげたいと考えます。
「彼女のこれからの長い人生の中で、わずか2傷にしないよう、何かできないか。」歳にもならない時に受けたこの火傷の傷痕を、できる限り心の
コソボの支援活動に携わる日本人有志が、このような気持ちで本会を設立しました。
ぜひ、皆さんのご賛同とご協力を、お願い致します。

目 的
本療会活は動をコソ支ボ援すのる戦争事を中に主た顔面る及目び的頭と部し右て半設分立にする大。
火傷を負ったベシアナ・ムスリュウちゃんの日本における治療

活 動

ベシアナちゃんとその家族の日本への渡航費、滞在費、治療費等の為の募金活動
ベシアナちゃんへの日本渡航滞在中の様々な支援活動(宿泊、通訳、ボランティア活動等)

募金先
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本会の趣旨に賛同される方は、下記口座まで寄付金をお送り下さい。
三菱東京UFJ銀行 表参道支店(普)1323557ベシアナちゃんを助ける会
事務局ADRA Japan事務局内住所:150-0001東京都渋谷区神宮前1-11-1
電話:03-5410-0045/FAX03-5474-2042/Email:tokyo@adrajpn.org

発起人(肩書きは1999年当時のものです)
50音順
井上健(国連職員UNMIKスケンデライ/セルビッツア市長)/石井公一(国連職員UNMIK上席顧問)
岡村善文(外務省職員UNMIK特別代表首席顧問)/塚本俊也(ADRA Japan支部長)
中村恭一(国連職員UNMIK広報室長)/益子崇(国連ボランティアUNMIKプロジェクト担当官)
水野時朗(国連職員UNMIK住民・有権者認定・登記所長)/向井明代(国際移住機構地域開発専門官)
安田弓(国連ボランティアUNMIKプロジェクト担当官)/横地晃(外務省職員前UNMIKプリズレン市行政官)
報 告本会の活動報告及び募金の会計報告は事務局であるADRA Japan行う。
ペシアナちゃんをを助ける会 代 表 中村恭一