市民国連3周年記念シンポジューム分科会報告書

  第一分科会 【国連とアフリカ】 


   座   長 : 柴田 孝男 

   発 題 者 :  小林 重一,ペペニョン・イマニュエル
   コメンテ-タ-: 池亀 美枝子 
          

     
場  所 :  早稲田大学 14号館 404号室 


 《発言者(敬称略)》 (柴田)  

午前からの続きとして進めていく。<私の紹介>私はナイジェリ
アとジンバブエに住んでいた。ナイジェリアの首都ラゴスに2年間いた。この
ときの上司が、ここにおられる黒河内大使です。ジンバブエは、アフリカの中
でも一番新しく独立した国。1980年から28年間経つ。リベリアの大統領
エレン・ジョンソン・サーリがまだ国連にいた頃の上司が、ここにいらっしゃ
る池亀さんです。リベリアはつい最近まで内戦が行われていた。米国にいた奴
隷(解放奴隷)が帰る国としてつくられたが、現地の人に比べてその占める割
合は数%。現地の人とで内戦が勃発した。エレンさんは、選挙で選ばれた女性
の大統領。アフリカの中でも上向きの国々が多くある。本日この場では、皆さ
ん自身が議論して頂き、座長は取り次ぎ役として振る舞いたい。 (黒河内)
 私がここにいるのは、お話を聞かせて頂き、質疑応答の中から見失っていた
ものをつかむため。

 <一言アフリカについて>
アフリカは遠い、遠いと言っているが、1W、10日と行って頂いて、認識が
なかったのを深く認識して頂き、感覚を現地で養って、さらにNGOの役割を
自分で 見つけ出してほしい。NGOの役割を果たすのに、NGOの中に入って
現地で働くのと,外国のNGOを利用する(国内で海外の有志,NGOの要員をバッ
クアップする。)という手段がある。お友達とかに参加してもらうといい。
NGOの人がやれることについて、どうやったらスムースにいくか。また行っ
てやっている人達の成果がフィードバックされていない。アフリカに二ノ宮尊徳
や上杉鷹山のような人が生まれたなら、日本は簡単に追い抜かる。


 (イマニュエル)
ベナン共和国からきた。ナイジェリアの隣の短冊形の国。仏の植民地だった。
国内の融和と再建についてお話したい。
 《本論》
(小林) 午前中に池亀さんからのお話にあったように、アフリカが最近変わ
ってきている。AA諸国といえば、後進性のつよい地域の代名詞であったが、
アジアは著しい発展を遂げていて、AA諸国という言葉は使われなくなった。
アフリカは貧困な暗黒大陸とは言えず、可能性のある国(地下資源が豊富、
才能豊か。身体能力の他に頭脳的力もすばらしいものを持っている。)と言え
るようになった。

このような背景を持ったアフリカについて、内乱の危機を経験したケニアの話
を致します。ケニアは、昔、日本に少年ケニアの漫画があったように、日本に
とって馴染みの深い国。ケニアは、2007年12月27日に大統領選挙、国
会議員の選挙があった。しかし、この後、争乱が起き、内乱一歩手前まで行っ
た。大統領選では、与党のキクユ族のモアイ・キバキ氏と野党のライラ・オデ
ィンガ氏が争った。最初は、ライラ・オディンガ氏がリードしていたが、秘密
開票作業を経て12月30日にモアイ・ムバキ氏が当選した。野党は、不正が
あるものとして、オディンガを正当な大統領と主張。ビクトリア湖畔のキスム
という都市から首都ナイロビへ反対運動が広がる。しかし。キバキは譲らなか
った。そして部族対立の感情に火がつき、教会などの焼き討ちが行われ、暴動
にまで発展した。ケニアは、1863年11月12日英国より独立。初代大統
領は、キクユ族のジョム・ケニアッタ氏であった。キクユ族は、土地やビジネ
スなどで、いい所を独占した。他部族に不平不満が高まっていた。キクユ族(
ゲックユ(G)とモンビの子孫)はエンブ族(E)とメルー族(M)を加えて政治結社ゲ
マを結成した。2代目もキクユ族(ゲマ)の出身。ケニアは、米国の友好国で
、アフリカで唯一の自由の砦をなしていた。しかし、キクユ族の独裁というこ
とになれば、米国議会が許さず、副大統領のダニエル・アラップ・モリ氏(キ
クユ族の対抗部族であるカレンジン族)をトップにという声に押されて、3代
目はダニエル・アラップ・モリがなり、2002年まで大統領をつとめた。し
かし、これも20年以上の長期政権となり、私腹を肥やし、キクユ族との部族
対立も著しくなり、昨年まで、キクユ族のキバキが大統領になった。
 今回の争乱では、野党は、ならず者集団(日本の暴力団に相当)をまきこん
で反撃。アナン氏が中心となって調停に乗り出したが、アナン氏3日くるのが遅
れていたら、内乱の泥沼になっていたといわれた。数百名の死人が出て、400
万人が隣国避難。
オディンガ氏は人物のできた人。ルウォー族の人。父も政界の人。親子2代の
悲願であった大統領職。今年1月20日のナイロビでの礼拝の後、オディンガは、
正義がなければ平和はなく、平和がなければ統一がないといった。オディンガ氏
は内乱をれ、アナン氏がナイロビに入る20日前に調停に参加すること受け入れ
ていた。
1/21にアナン氏がナイロビに入り、対立している双方から4名ずつの調停
団が組まれ、1/23から調停に入った。途中何度も暗礁に乗りげたが、2/15の
記者会見でついに水際まできたことが明らにされた。両陣営は、単なるポストの
奪いではなく、ケニアの将来のための広汎的な改革を望んでいることを表明。
2/23に連立政権で合意。キバキ氏はそのまま大統領につき、オディンガ氏の
ために新たに首相ポジションを用意。閣僚は半分ずつ出し合うことになった。
3/18 よりオディンガ氏は首相。私が8~9月にケニアを訪問した際、オディ
ンガ氏が当時を回顧しながらのスピーチをきいた。それまでのケニアの見せかけ
の統一がはがれたとき、谷底が見えた。このまま何もしなければ,ケニアは崩壊す
る。活動を再開。互いに認め合い、尊重。1つになるべきだと考え、譲歩した。
ウガンダや南アフリカのトップ、英国のブラウン首相が心配してTELをかけ
てきたことに、心から感謝している。当時、あまりの緊張でタバコも吸うひと
がいなかった。カジノがあるのもわからなかった。それほど緊張した会談が行
われていた。
アナン氏が連れてきた高名な神父ベンジャミン・ムガバー氏(神父になる前は
大統領だった。選挙に負けたら,さっさと引退。)も参加して、アナン、キバキ、
オディンガ、ムガバーの4者で、暴動中にも会談が行われた。この会談で,オディ
ンガ氏が調停案を受け入れるとキバキ氏も受け入れた。調停の成功の鍵は,アナン
氏の忍耐強い説得と国民の生命,生活を優先したキバキ氏とオディンガ氏のおかげ
と言える。良い前例となって他国へ波及していくことを止みません。
 以上のお話に関して、以下の質疑応答あり。

(質問1) ケニアで成功した要因と他国でも同様にできるかどうか?

(回答1) 他国のリーダーも、自分の権力欲よりも国民の生活と安全を重要
      視する。ケニアは地下資源がない。観光立国。海外の国々を受け入れ、
      国際的。海外の人達が引き上げるとケニアが成り立たない。地下資源
      があると外国の貪欲な人達がきて私腹を肥やすために売り払う。
      資源の奪い合いで内乱に陥りいりやすい。

(質問2)民衆レベルでの感情的対立をどう解消したか。まだ感情的対立が残って
     いるとすればどのくらい残っているか。殺された人々のわだかまりは?
     感情的対立解消に対する政府の態度に関する小林さんの評価は?

(回答2)殺された人々に関しては、NGOや教会など、さまざまなレベルで連携
     しながら、追悼集会や和解のための会合などが持たれている。ケニア
      We want Forum !(私達が望む建設的な話し合い)も立ち上がっている。
     官民共同。2度と起こさないようにするための運動。 

(質問3)ケニアは次期米国大統領オバマ氏のふるさとでもあるが、米国による
     アフリカの改善、米国と国連との関係に関して、希望的観測はどのくらい
     あるか?

(回答3)オバマ氏の父は、オディンガ氏と同じルウォー族。(名前が、 O-,A-
     で始まる。)オディンガ氏は、現大統領が不正をしたので、国際機関
     による調停を望んだ。現実は、賢い人々がたくさんいたがより混乱した。
     ブッシュ氏は キバキを応援しあてにならない。オバマ氏が次期米国大統
     領に当選して、ケニアは国をあげて喜んだ。アフリカ全体が希望を持った。
     アフリカの性質が変わってきた。独立戦争当時は心を1つにしてきた。
     いざ独立するとどの部族が主権を取るかで内戦となる。米国とソ連が
     支援する部族同士の対立。兵士が、中国、北朝鮮で訓練を受けていた。
     (冷戦時)米国とソ連の中にはめ込まれていた部族闘争。今は、本当の
     意味での部族闘争になっている。

      ここで、池亀さんからコメントあり。

(池亀)(Ⅰ)今の国境線は、部族とは関係ない。1部族が2つの国にいる
    。1つの地域が多国間闘争になる。
       TICADでのプロセスで次の2つを日本が提示。
     ①アフリカユニオンのリーダーシップ、オーナーシップ+
     ②それを尊重し支えるパートナーシップ。欧米による、従来の利潤、
      搾取を考えたアフリカへの介入と違って、日本はしがらみのない
      中立な立場で入っていける。アフリカにとってプラスである。
      日本が貢献できるところはたくさんある。ケニア We want Forum
      も日本が助ける。現在、問題になっているジンバブエで、南アの
      ムベキ大統領は、ジンバブエのムガベ大統領よりも20才若い。
      また世話にもなっている。南アのいうことをきかない。

   (2)新しい人によるリーダーシップ
      前述のリベリアでの話し。エレン・ジョンソン・サーリさん。
      1971年ハーバード大卒。米国解放奴隷。父は財務大臣を務めていた。
      クーデターがあって、現地の人がトップにつくと、ヘレンさんは
      追放された。その後、現地の人であるが米国で学んだことのある
     チャールズ・テイラーがクーデターを起こす。ヘレンさんは帰国した
     が刑務所に入れられレイプまでされそうになったが、ケニアに脱出。
     さらに米国へ行ってUNへ。TICAD1で池亀さんと知り合いに
     なった。1997年大統領選に出馬したが10%の得票率で敗退。
     しかし、2005年大統領選で勝利した。2006年からリベリアは
     変わった。上記の他に米国次期大統領オバマ氏に対するコメントが
     あった。(決定的な勝利のし方、透明な選挙の力強さ、アフリカにも
     アメリカにも希望が見える。)
       
(エマニュエル)
  エマニュエルさんは、在外ベナン人協会の会長をしていらっしゃる横浜在住の
  ベナン人の方。この国の辿って来た平和、和解の道のりについてお話された。
  ベナン共和国は、西アフリカの国。ナイジェリアとトーゴの隣昔はダホメと
  呼ばれてきた。1975年からベナン共和国。1975年~1990年まで、
  共産主義国家であった。15年の経験は苦痛であった。
  1990年に、国内でのナショナルカンファレンスにより、民主主義の国家に
  なった。 共産主義は、宗教もダメ、何でもダメ。共産主義はダメでした。
  これからはベナン共和国が和解の中心的モデルとなります。この経験が他国の
  和解プロセスにも生かされている。1995年の南アにおける真実と和解の委
  員会、リベリアの例、ケニアもそうです。
  ヨーロッパのリバプール、アメリカのリッチモンド、バージニアと共に、アフリ
  カのベナンは奴隷貿易の中心地であった。
  ベナンでは、共産主義から民主主義に変わるのに戦争がなかった。穏便に政権
  移譲がなされた。平和裏に行われた。冷戦終結とともに教育にも重点がおかれた。
  ベナン人は世界に広がっており、政府公認としてベナン人高等理事会がある。
  別に配布した資料にあるとおり、3つのミッションを持って臨んでいます。
  本理事会を通した経済援助は、ODAの送金額に等しい。
  
 (池亀氏)
  ここでコメントあり。アフリカレポート2008-2009によれば、GDPは、
  4.1%の増加、初等小学校の就学率は80%に達している


 (柴田氏)
  ナイジェリアのラゴスから車で簡単にいける。元仏領だったのでパンがおい
  しく、車で買いに行くことある。ケニアも崖っぷちにいながら、 危機を乗り
  越えた。国を大事にしようという気持ちがある。アフリカ大陸は大陸。地域で
  違う。一括りではいえない。国境は自分達が引いていた線ではない。このような
  歴史に対する責任がある。
     ここで質疑あり。
     
 (質問4)1978年頃まで、ジンバブエは非常にいい国だった。今、大変
    な状況だが、またよくならないのか?

 (回答4)柴田氏は、1997年から1999年までジンバブエに住んでいた。
    1965年英国が手放すことにより独立。ローデシアと呼ばれていた。
    10年間暫定政権時代があった。
    1990年に終わった。大規模農場で成功。タバコや食料、プラチナなど
    の輸出で潤った。気候が良く、水もしっかり引かれていた。高度が高く、
    涼しく住み易い。治安もしっかりしていた。10万強の白人がいた。
    最初、ムガベが白人に手を貸した。その後、白人を叩くようになり、叩く
    簡単な手段としてのために社会主義的イデオロジカル化していった。
    白人の大規模農場主を黒人に解放したが、これが失敗。農業生産を落とし
    てはいけないのに、強制的に取り上げを行った。ムガベ氏は反アパルト
    ヘイトの最先端を行き、個人的にはアフリカではプレステージを持って
    いる。押さえるのがむずかしい。南部共同体でやろうとしてもむずかしい。
    ムガベ氏を取り除くこと以外に良くする方法はない。国連安保理では、
   米ロが互いに拒否しあっており、収拾のメドがたたない状況。

 (質問5)ここで、マダカスカルからこられたトヨタさんから質問あり。
    ( TICADⅢで大統領の通訳もされた方。)
    マダカスカルはアフリカユニオンの中でどういう立場にあるの
    でしょうか。大陸から独立した位置にあり、何かあったとき助けてもら
    えるのか。アナンさんのとき助けてもらえた。マダカスカルはブッシュ氏
    は応援している。オバマ氏になったら、どうなるのか。

 (回答5)ブッシュさんになってから、対アフリカ援助は増えている。オバマ
     さんになってからも続くと思われる。(?氏)
     首都アンタナナリボは、山上にある。水田が広がっている。懐かしく
     思える。大陸とは植物、動物が違う。アジア系の人の流れ着いていると
     思われる。モーリシャス、セーシェルもあり、アフリカ的でないのが特徴。
     マダガスカルはポテンシャルはある。前大統領はプラベタリゼーション
     を重視。他のアフリカ諸国はジェラシーを感じている。すばらしい人材。
     36%の人が(頭脳)流出。移民している。(池亀氏)


  (エマニュエル氏) 島であり、山があり、近いという感じ。
     ケンポベルデ。混血。アフリカの人と違う。雨も多い。
     サハラ砂漠化すすんでいる。ポルトガル語。日本人いない。柔道、空手
     を教えている人が中心地から離れたとこにいるぐらい。産業がない。
     他国へ働きに行っている。女性が残っている。
          
 (質問6) 溝口さんからの質問あり。
    アフリカは日本の企業進出が遅れている。日本は侵略はしていないし、
    アフリカからスポーツ選手が日本によくきている。アフリカに対する
     新鮮さ、無限の力を感じる。アフリカに対する意識を高めるために、
    外務省が アフリカに関するアピールに何故、力を入れないのか。
    我々としては、とっかかりとして何をすればよいと考えられますか。

 (回答6) 池亀さんからの回答。
    黒河内大使もかかわったTICADは、最初1回で終わりにしようという
    つもりでいた。しかし、アフリカの人達は、新鮮な西洋でない経済大国に
    期待をした。コートジボワールでは、トヨタが支店を出そうとしたが、
    仏の介入でできない時期があった。今はトヨタは進出している。
    TICADⅣでは、12カ国70人のリーダーを連れてアフリカへ。訪れた
    6カ国のうち5カ国が仏語圏。民間セクターが推進しやすい土壌をつくっ
    ている。政府は努力している。不況だけど、5年間はODA倍増は約束。
    特にアフリカは期待できる。外務省の援助を通しながらやっていく。
    外務省により、TICAT4でメカニズム、システムはできた。
    (横浜宣言)何をしたのかの報告書を閣僚会議で見ることになった。


    《座長総括》

   政府のやることと市民社会のやること違いがある。一人ひとりでみると
   関係ないんじゃないかと思えても、苦しんでいるのは、市民一人ひとり。
   そこで、
     (1)全体観をもっていただく。
     (2)日本政府が何をしているか、一人ひとりが見て頂きたい。
  
 皆さんの責任である。
   農学博士の御田さんから、現地でのサトウキビの生産に関して、問題
   点等ご意見がありました。
   役所の説得が大変。次に業界の説得も大変。現地への視察団の派遣、
   国対国での正式文書の必要性、生産量の見込み。(有機肥料や土地の広さは
   十分にあり。)市民グループでやっていくには。技術者を揃えたり。法律を
   知っている人も必要等。 
                             以上